1970年、東京・世田谷に生まれたなべやかん(渡辺心)。父はなべおさみ、母は笹るみ子という芸能一家。自宅は高級住宅街にある豪邸、自他共に認めるお坊ちゃんの環境でした。
父に対しては「お父様」と呼ぶように躾けられ、言葉も敬語。テレビではいつも笑顔の陽気なキャラクターだったなべおさみでしたが、息子には厳しかったと言います。いつしかなべやかんは、母は姉といる時は寛げるものの、父とは一緒にいたくないと思うようになりました。
内部進学に失敗
なべやかんが通っていたのは成城学園高校。幼稚園から大学まである学校で、一定の成績以上あればエスカレーター式に進学できます。
ここに小学校からずっと通っていたなべやかんは、成城大学に通えると思っていました。しかし、成績が悪く大学へのエスカレーターに乗せてもらうことは出来ませんでした。かといって他の大学を受験するなど全く無理。
そこで、なべやかんは高校を留年。1年後の内部進学を目指すことにしました。
ところが1年後も、内部進学に失敗。エスカレーター式での進学を諦めたなべやかんは、高校を卒業し浪人生活に入りました。本人は勉強も嫌いなため、特に大学に行きたいとも思っていませんでした。
一芸入試にかけるも不合格
そんななべやかんさんが見つけたのが一芸入試。これなら勉強しなくても入れるんじゃないかと玉川大学の一芸入試1本に絞ることにしました。しかし、不合格でした。
不正入学
すっかり大学を諦めていた1991年1月、なべおさみは何年も前から仕事で世話になっている人物を訪ねました。以前からこの人物に息子の話をしていました。
「今年も大学は無理」と話すなべやかんに「明大なんてどう?」と言ってきたのです。
約束は成立し、後は細かい指示に従うだけでした。不正入学という思いはあったものの、息子を大学に行かせてやりたいという思いが強かったと言います。
なべやかんは、父の指示通り明治大学の政治経済学部と商学部の2通の願書を入手。顔写真は貼るなという指示に従いました。入試当日も試験会場には行かず、明治大学商学部の合格通知が届きました。
替え玉受験発覚!
大学への入学手続きもすませ、入学式を2日後に控えた日のこと明治大学に呼び出されました。
入学手続きの書類には自分の写真が、受験票には別人の写真が貼られていました。つまり、試験なしで特別に入れてもらえたわけではなく、自分の名前で別人が受験していたことにようやく気づいたのです。
試験を受けるべき本人になりすまして受験する替え玉受験が、なべやかんの知らなかったところで着々と行われていたのです。
緊急会見!仕事も自粛
その後、なべおさみ・なべやかん親子の替え玉受験が世間にもバレ、緊急会見を開くことになりました。
なべおさみは、12年間レギュラーだった「ルックルックこんにちは」を降板。他のテレビの仕事もCMなども全て自粛となり各方面に頭を下げてまわりました。
18件の替え玉受験
一方、なべやかんも警察の事情聴取を受けました。実はなべやかん以外にも18件の替え玉受験が発覚していました。実は明治大学における替え玉受験は、8年にわたり組織的に行われていたのです。
その中心になっていたのは一部の大学職員やOBたち。なべやかん親子は「お金を渡した事実はない」と語りましたが、後に不正入試に関わった大学職員やOBらは依頼者側から多額の報酬を受け取っていたことが明らかになりました。
替え玉受験の手口
まず窓口役が受験生の親から依頼を受け、金銭的条件などを提示。そして、試験を受ける替え玉を現役大学生などから調達。
大学側は受験票の写真で本人確認をするなど不正入試の防止を徹底していましたが、犯行グループは受験票の写真を替え玉学生のものにして入試を迎え、替え玉自身が試験を受け、その後受験票自体を本人の貼ってあるものにすり替えていました。
長年バレずにいましたが、この年なべやかんの受験票と入学手続きの写真の違いが発覚。替え玉受験が明るみに出るきっかけとなったのです。
関わった人たちの処分
そして、3人の大学職員とOBらが有印私文書偽造の罪で起訴され有罪となりました。
一方、替え玉として受験にのぞんだ学生たちは退学や停学処分の制裁を受けました。不正入試で入学した学生たちは不起訴となりましたが、明治大学にはもちろん進めませんでした。
その後のなべやかん
その後、なべやかんは大学を諦めてたけし軍団に。
なべおさみのタレントとしてのダメージは、24年経った今日に至るまで響くことになりました。
「ザ!世界仰天ニュース」
なべやかん明大替え玉事件
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