人気歌謡作家 誕生の経緯
スティーヴン・フォスターが生まれたのは、移民たちが多く暮らすアメリカ東部ピッツバーグの郊外です。白人の大家族に生まれたフォスターは、幼い頃から歌や楽器に親しみ、2歳の頃にはギターでハーモニーを奏でたと言います。
やがて、ドイツ人の音楽家にモーツァルトやベートーヴェンなどのクラシック音楽を学びましたが、一方で街で演奏される様々な国の音楽にも興味を持ち、それらを吸収しながら作詞作曲を学んでいきました。
そんな彼が当初作品を発表した舞台がミンストレルショー。白人が顔を黒く塗り歌とダンスで黒人を面白おかしく表現する当時大流行していた差別的な大衆娯楽です。名曲「おお、スザンナ」も、もとはこうしたショーで披露された作品でした。
ショーの音楽作りに明け暮れる中、20歳のフォスターに大きな転機が訪れました。海運会社を運営する兄の依頼で、オハイオ州シンシナティで働くことになったのです。
当時のシンシナティは奴隷廃止運動の中心地。この街に暮らすハイエット・ビーチャー・ストウの小説「トムおじさんの小屋」はフォスターに大きな影響を与えました。白人につかえ虐げられた黒人奴隷トムを描いた物語。奴隷解放を呼びかけるきっかけとなった作品です。
黒人、白人の区別なく人間そのものの姿に目を向けるようになったフォスター。26歳で発表したのが名曲「ケンタッキーのわが家」です。
実際に奴隷制をしいていたケンタッキー州にまで足を運んだフォスター。我が家を追われる黒人たちの姿に重ねたのは、アメリカ人全てが抱く望郷の思い。この曲は多くの人たちの心を掴み、たちまちアメリカ全土に広がっていきました。
苦悩の現実こそ創作の源泉
一躍人気者となったフォスターは、24歳の時に医師の娘であるジェーン・マクダウェルと結婚。翌年には子供が生まれました。その2年後、さらなる飛躍を夢見てニューヨークへ。しかし、それは故郷に妻を残したうえでの決断でした。
この時期、フォスターは妻への想いをたくし切ない名曲を書き上げました。「金髪のジーニー」です。この頃からフォスターの人生に暗雲が立ち込め始めました。
著作権の交渉に不慣れなフォスターは、作品を出版社に安く買いたたかれたうえ全ての作品の版権まで奪われてしまいました。
1855年1月には最愛の母イライザが亡くなり、その直後に父ウィリアムの死去。経済的な困窮から妻子の心も離れていきました。
自暴自棄となり酒におぼれる毎日。それでもフォスターは作曲を続けました。音楽家として成功するという夢を捨てきれなかったのです。
晩年の名作「夢みる人」は、そんな荒んだ生活の中で大切に書き続けた一曲です。音楽を書く時だけは苦しい現実から逃れられる、そんな思いが歌詞ににじみます。
1864年1月、フォスターは浴室で転倒。出血多量で37年の生涯を閉じました。
「夢みる人」の楽譜が出版され、人々がその素晴らしさに気づいたのは彼の死後のことでした。その後、作品は歌い継がれ今もアメリカ人の心に生き続けています。
「ららら♪クラシック」
フォスター名曲集 ~美しき夢を歌い続けて~
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