徳川家康の読書愛 ~ワシはコレで天下をとりました~|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」でワシはコレで天下をとりました。~徳川家康の読書愛~が放送されました。戦国乱世を征し天下人となった徳川家康(とくがわいえやす)ですが、彼には織田信長や豊臣秀吉のような生まれもったカリスマ性はありませんでした。しかし家康は2人に負けない強力な武器をもっていました。それは本。戦場でピンチに陥った時にも本から得た知識で見事解決。本の教えを実践することで天下人へと駆け上がっていったのです。

 

ボクは本で立派な武将になる!

天文11年(1542年)徳川家康は三河国(愛知県岡崎市)に生まれました。幼名は竹千代。松平家の跡取りとなる待望の男の子です。しかし当時の松平家は力が弱く隣国の織田家か今川家に従わなければ生き残れない状況で、竹千代は8歳で今川家へ人質に出されました。今川家の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)は竹千代に学問を学ばせ、将来今川家の役に立つ人材に育て上げようと考えていました。竹千代は故郷を離れた寂しさを紛らわすかのように本にのめりこんでいきました。そんなある日、本の中にヒーローを見つけました。「吾妻鏡(あずまかがみ)」は鎌倉幕府の歴史書ですが、竹千代は鎌倉幕府を開いた源頼朝の逸話に魅了されました。源頼朝がまだ幼い頃、父親が平清盛に敗れました。親や兄など一族が殺される中、頼朝は死罪をまぬがれ伊豆に流されました。しかし20年後、頼朝は兵をあげ平家を倒して天下を取ったのです。

 

竹千代は兵法、儒学、易学、医学など本への興味を広範囲に広げていきました。太原雪斎はそんな竹千代を「将来大活躍するだろう」と褒めたたえたと記録は伝えています。やがて成長した家康の評判は松平家が従う今川義元にも届き、有能な武将として今川家に取り立てられることになりました。

 

永禄3年(1560年)、今川義元が2万5000の大軍で織田信長を攻めました。この戦いで家康は今川軍の先鋒として重要な任務を任されました。それは最前線にある味方の城に兵糧を運び入れること。しかし目的の城は敵の砦に囲まれ近づくことが出来ません。そこで家康が参考にしたのが孫子の兵法。まず囮部隊で織田方の砦の一つを攻め、これを見た織田方はピンチだと思い助けに向かいます。すると味方の城の包囲は手薄に。敵を罠にかける作戦は大成功しました。ところが大将の今川義元が戦死し味方は総崩れに。気づいた時には家康は敵中に孤立。絶体絶命のピンチでした。この時、家康には捕虜にした織田方の武将がいました。そこで家康がひねり出した計略は、怪しまれないよう捕虜の武将を先頭に立たせ敵の中の堂々と退却。意表をついた作戦で見事難局を乗り切ったのです。家康はこれを機に自分の故郷・三河に戻りました。

 

オレは本で名君になる!

天正元年、戦国最強と恐れられた武田信玄が亡くなりました。家康は中国の哲学書「孟子」に書かれたある言葉を思い出しました。それは「敵や心配ごとがなくなると国は滅びる」というもの。そして武田信玄の死から2年後、家康は織田信長と共に武田家との決戦にのぞみました。その後、武田家は滅亡。信長は信玄の跡継ぎ武田勝頼の首をさらし「この首を見ろ。実に気分が良い」と嘲笑ったと記録に残っています。このことは武田家の家臣たちの耳にも届きました。後に本能寺の変で織田信長が亡くなると恨みにかられた武田の家臣たちは一斉に蜂起し信長が派遣していた猟師たちを一掃。一方、家康は武田勝頼の首をもらう受けると丁重に扱い、かつての武田家家臣1000人余りを難なく家来にしてしまったのです。さらにその後の領国経営でも本の知恵が大活躍しました。徳川家の記録によれば家康が領地を治める時の方針は「政は人心を得るにあり」と書かれています。実はこれは「論語」から引いたもの。家康は新しい領地を手に入れるとこのことを実践しました。領主が代わって不安がる領民たちに家康はお触れを出しました。前の領主が作った制度は変えず、税は安くするというもの。本で学んだ教えをたびたび実践することで家康はやがて名君と言われるまでになりました。

 

ワシは本で天下を治める!

慶長5年、家康は天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利をおさめました。天下人となった家康は長年温めてきた夢を実現しようと動き出しました。それは日本一の図書館を作ることでした。家康は国中から優れた書物を買い集め、戦乱で衰えた鎌倉幕府ゆかりの図書館・金沢文庫の本も自分が管理するようにしました。また公家や大名から献上された本も数多くありました。中国や朝鮮伝来の本も収集し家康の蔵書は1万冊あまりになりました。こうして集められた本は側近たちが自由に読めるようにしました。さらに家康は公家や僧侶など一部の人が独占してきた貴重な本を写させました。写しは3部作られ朝廷、幕府、家康の図書館におさめられました。万が一火災にあったりしてもいずれか一冊が後世に残るように考えられた書籍の保護策です。そして、図書館に集められた国内外の政治や法律の本を参考に国をおさめる新たな法律を作りました。家康の命によって始まったこの取り組みは後に大名たちの軍備を減らす一国一城令や武家諸法度として実を結びました。

 

ところが本の知恵だけでは解決できない難題が家康の前にあらわれました。それは豊臣秀吉の子・秀頼の扱い。家康が徳川幕府を開いた後も豊臣家の威光は健在でした。これまで本の教えに従い行動してきた家康。亡くなった敵は褒めたたえ敗者には情けをかけ、領民に対しては徳をしめしてきました。ただ邪魔な存在だからという理由で秀頼を攻め滅ぼすことは、これまでの信念に反する行いです。家康は自分の信念と現実のはざまで苦しみました。

 

そんな時に思い出したのが幼い頃に読んだ「吾妻鏡」でした。一度は源氏を倒した平清盛は幼い頼朝を殺さず伊豆に流しました。そして25年後、平家は頼朝によって滅ぼされたのです。家康は敵に変な情けは無用だと気づきました。そして慶長20年、大坂夏の陣が始まりました。家康は15万以上と言われる大軍で大坂城を攻め豊臣秀頼を滅ぼしました。

 

家康が江戸城内に作った図書館はその後も蔵書が増え続け幕末には11万冊以上になりました。江戸時代を通じて家臣たちに広く貸し出しを許可しました。晩年、家康が図書館作りに負けないほど情熱を傾けたのが本の出版。「群書治要」は論語や孟子など60以上の書籍から政治を行う上で参考になる言葉を抜粋した本です。家康は「群書治要」を出すために最新の印刷技術を導入。できるだけ多くの人に本を読んでもらいたいというのが家康の願いでした。この家康の夢は8代将軍・徳川吉宗によって引き継がれました。吉宗は庶民に読み書きを教えるための本を出版。全国の寺子屋で教科書として使われました。江戸時代、日本は世界有数の識字率を誇る国となり、誰でも本に親しむことができる世の中が訪れました。やがて庶民自らも本を出すほど空前の読書ブームが巻き起こるのです。生涯にわたって本を愛し続けた家康が残した言葉があります。

 

「世の物事がどうあるべきかを教え あるいは知るには本しかない
物事の正しい道筋をみんなが分かれば 世は治まり 戦いがおきる事はない」

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