小柳ルミ子の離婚騒動の裏側|爆報!THEフライデー

小柳ルミ子(こやなぎるみこ)さんは、1952年に福岡県で生まれました。父親は小柳ルミ子さんが3歳の時に他界。残された母は、特別な方法で小柳ルミ子さんを育てました。

母の呪縛

実は、小柳ルミ子さんの母は教育に異常なほど熱心でした。その理由は母・愛子さん自身が歌手になりたかった夢があったからです。そのため、生まれる前から小柳ルミ子さんを歌手にしようと決めていたのです。

小柳ルミ子さんは、小さな頃からピアノ、歌、バレエ、習字、ジャズダンス、日本舞踊、タップダンス、三味線など習い事を掛け持ちさせられました。母親は家計をきりつめ、ありったけのお金を小柳ルミ子さんの英才教育につぎ込みました。そのため、小柳ルミ子さんは「自分は歌手にならなければいけない」と母から呪縛をかけられていました。

歌手デビュー

15歳になると、母が望んだ宝塚音楽学校に進学。その後、小柳ルミ子さんは宝塚音楽学校を首席で卒業し芸能界へ。18歳の時に「わたしの城下町」で歌手デビューを果たしました。

1972年には「瀬戸の花嫁」が大ヒット。日本歌謡大賞、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞を受賞。母が娘にたくした夢を見事叶えてみせました。

しかし、母からは「おめでとう」もねぎらいの言葉もありませんでした。

その後もヒット曲をとばし続け、映画・バラエティと活動の場を広げながら芸能界のスターダムにのしあがっていきました。

離婚騒動で大バッシング

しかし、2000年に13歳年下ダンサーとの離婚騒動で大バッシングを受けることに。嘘か本当か別れた夫に慰謝料1億円を請求などセンセーショナルな記事が飛びかう中、福岡で暮らしていた母にまでバッシングが襲いました。

当時、小柳ルミ子さんは自殺を考えるほど追い込まれていたといいます。家では情緒不安定に陥り錯乱状態に。しかし、そんな小柳ルミ子さんを救ってくれたのは母の「信じとうよ、私の娘だけん」という言葉でした。

以降、小柳ルミ子さんはどんなバッシングにも動じることなく仕事に没頭。強く母が育てた娘は、母と同じ強き女になっていました。

母の介護

しかし1年後、母に悪性リンパ腫が見つかりました。すでに末期の状態でした。小柳ルミ子さんは母を東京の病院に呼び寄せ、付きっ切りの介護生活が始まりました。

病院に寝泊りし仕事をする日々。この時、小柳ルミ子さんは周囲やマスコミには介護のことを一切隠していました。お茶の間で見せる笑顔の裏で、小柳ルミ子さんは寝る暇もない生活を続けていたのです。

しかし2006年12月12日、母は危篤状態に。ディナーショーのサウンドチェック中だった小柳ルミ子さんは、医師に頼み受話器ごしに「瀬戸の花嫁」を歌い上げました。そして、その歌を最期に母・愛子さんは亡くなりました。

ディナーショーを終え母のもとに駆けつけた小柳ルミ子さん。枕元には「ルミ子のおかげで楽しい人生でした、ありがとう」という手紙が置いてありました。

母が亡くなってから7年、天国へ歌声を届けるため小柳ルミ子さんは今日も歌い続けています。

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あの歌手は今…知られざる確執SP

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