ミヨーの「スカラムーシュ」|ららら♪クラシック

NHK・Eテレの「ららら♪クラシック」でリオの旋律に燃えた男 ~ミヨーの「スカラムーシュ」~が放送されました。「スカラムーシュ」はフランス生まれの作曲家ダリウス・ミヨーの代表作です。彼は思いがけない体験をきっかけにこの曲をかき上げました。

 

ありもので大サービス!?

「スカラムーシュ」は2台のピアノのためにかかれた組曲で3つの楽章から成っています。第一楽章はアップテンポのコミカルな旋律。第二楽章は優雅で牧歌的。第三楽章は「ブラジルの女」というタイトルがついた最も有名な楽章です。実はこの組曲、ミヨーが以前にかいた別々の作品を寄せ集めて作った音楽です。ミヨーはなぜありものを使ったのでしょうか?

時は1937年、パリ万国博覧会が開かれた頃。ミヨーは万博関連の仕事などにおわれ多忙を極めていました。そんな中、またしても仕事を舞い込みました。当時人気の2人の女性ピアニスト、イダ・ジャンケレヴィチとマルセル・メイエルからの依頼でした。万博のコンサートで演奏する2台のピアノのための組曲をかいて欲しいというのです。ミヨーは断ることができず仕事を引き受けてしまいました。しかし、公演までに十分な日取りはなくミヨーはありものの流用を思いつきました。ミヨーはすでに書き上げていた2つの劇音楽を用いることにしたのです。一つはモリエールの演劇「空飛ぶ医者」のBGMとしてかいた音楽。「空飛ぶ医者」は医者になりすました男と仮病をつかった女が巻き起こすコメディー。この音楽をもとにミヨーは「スカラムーシュ」の第一楽章と第三楽章をかきあげました。もう一つはシュペルヴィエルの演劇「ボリヴァール」のBGMとしてかいた音楽です。「ボリヴァール」は植民地解放のために戦った英雄をかいた物語。ミヨーはこの音楽をもとに第二楽章をかきました。そして、これらを1つにまとめ2台のピアノのための組曲としたのです。曲のタイトルはコメディーを上演し、パリの人々を楽しませていた劇場の名を拝借し「スカラムーシュ」と名付けました。

万博の期間に行われた初演は大成功。ミヨーのサービス精神一杯の「スカラムーシュ」は多くの人々を魅了したのです。

 

異国のメソッドに開眼

フランスの南部エクサン・プロヴァンスに生まれたダリウス・ミヨーは幼い頃から勝手気ままにピアノを弾くのが大好きでした。街で耳にした歌をピアノでその通りに弾いてみせることもあったと言います。父親の勧めで7歳の時からバイオリンを学び始め、17歳になる年にパリ音楽院に入学。しかし、型にはまった伝統的な音楽教育に嫌気がさしたミヨーはバイオリニストになることを放棄してしまいました。その後、ミヨーは作曲家になることを決意。しかし、音楽院での講義は彼にとって退屈なものでした。ミヨーは在学中から伝統にとらわれない独自のユニークな作品をかき始めていました。そんな彼の異才に気づいた教官は「君は自分なりの表現を持っているのに、ここで何を学んでいるのかね。もう授業に出ることはない」と言いました。作曲家として自由な創作活動を始めたミヨー。その個性的な才能と大らかな人柄は、やがてジャンルを超えた多才な交流関係を生みました。そんなミヨーに魅せられた友人の一人に外交官のポール・クローデルがいました。劇作家で詩人でもあったクローデルの詩をもとにミヨーが曲を作るなど、2人は親交を深めました。そのクローデルから思いがけない依頼が寄せられました。

「ブラジルに駐在するフランス公使に任命された。秘書としてリオデジャネイロに同行してくれないか?」

この申し出を引き受けたミヨーは約2年間、ラテン音楽溢れるリオデジャネイロで過ごすことになりました。ついたのはカーニバル真っ盛りの2月。街のいたる所で耳にするサンバや、それを楽しむ人々の熱狂にミヨーは強い衝撃を受けました。中でも街の映画館の入り口でピアノを演奏していた一人の男に釘づけになりました。彼はブラジルの国民的な作曲家でピアニストのエルネスト・ナザレーでした。

「そのリズム、手から手へと移るシンコペーション!リオで過ごした2年間は私の心のラテン民族性を絶頂にまで高めた」(ダリウス・ミヨー)

帰国したミヨーは、自分の作品にブラジル音楽のテイストを取り入れていきました。そんな彼の音楽的特徴が最も色濃く表れているのが「スカラムーシュ」です。当時、ヨーロッパの作曲家には珍しかったブラジルでの体験はミヨーの作品に彩りと輝きを与えたのです。


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