終戦 知られざる7日間|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で“終戦”知られざる7日間が放送されました。8月15日の時点で、戦闘態勢のままだった日本軍関係者は約800万人。その中には降伏に納得せず徹底抗戦を訴える部隊が相次いでいました。実際に米軍機を攻撃するなど日米双方に多数の死者が出る事態にまで発展しました。日本の動きを逐一把握していたアメリカは武力で制圧することも想定し一触即発の危機が高まっていました。さらにこの時、北からはソ連が北海道に迫る勢いで侵攻。犠牲者は日を追うごとに増加していました。大国からの圧力と徹底抗戦の意欲が収まらない各地の部隊。政府と軍部は事態収拾に向けて難しい対応を迫られていきました。実際に戦闘停止の命令を徹底できたのは8月22日。この1週間に日本の命運がかかっていました。

 

8月15日、玉音放送を終えた2時間後、首相官邸では終戦に導いた閣僚が集まっていました。まず連合国から求められていたのが日本の占領と日本軍全部隊の武装解除という難事業でした。しかし、その閣議の場で総理大臣の鈴木貫太郎は突然内閣総辞職を切り出しました。終戦の決断を天皇に頼った責任を取るというのがその理由でした。敗戦処理の話し合いはスタートから躓くことに。なぜ軍の武装解除は困難だったのでしょうか?

 

当時、玉音放送が流れたとはいえ国内外にはなお戦闘態勢の将兵や軍属など800万人が配置されたままでした。これらの将兵たちに戦争をやめさせるには玉音放送だけでなく戦闘停止の命令を出す必要がありました。その命令を出すのが大本営の陸軍部と海軍部。しかし共に命令を出せない事情を抱えていました。陸軍部の実質的な責任者だったのが作戦部長だった宮崎周一です。宮崎のもとには前線の部隊から徹底抗戦を訴える電報が次々に届いていました。こうした電報は海軍部にも舞い込んでおり一方的に戦闘停止命令を出せばかえって暴発を招く危険がありました。終戦直後、大本営が最も懸念していたのが105万の兵力をようする支那派遣軍でした。中国軍を相手に優勢を保ち内陸部にまで攻め込んでいました。終戦直前には本土に侵攻してくるアメリカ軍を中国沿岸部にひきつけ一撃を加える作戦を立案。本土決戦を側面から支援する準備に取り掛かっていたのです。

 

一方の日本本土に展開する海軍の部隊にも不穏な動きが広がり始めていました。アメリカ軍との本土決戦に備えるため65ヶ所に展開していた特攻隊「震洋」の隊員たちです。部隊では敗北受け入れとは程遠い空気が広がっていました。明確な戦闘停止命令を出せずにいた大本営海軍部の指揮下にあった海軍総隊から「積極進攻作戦は見合わせる」とい命令が出されました。加えて「来攻する敵に対しては断固自衛反撃すべし」と命じています。戦闘を停止するどころかむしろ容認するかのような命令です。このことが事態を重大な直面に導くことになりました。

 

「断固自衛反撃すべし」という全国の艦隊と基地に伝えられた命令を高知県の特攻部隊司令部は8月16日の午前に受信しました。その日の午後、土佐湾沖にアメリカ艦隊が接近中という電報が舞い込み、特攻隊員には出撃準備の命令が下されました。敵来訪の情報は四国各地に配置された震洋隊にも伝えられ臨戦態勢がとられました。しかし、このアメリカ艦隊発見の電報は誤報でした。そのことを知らず急遽出撃の準備を進めていましたが、午後7時頃、一隻の船が突然爆発。他の船も次々に爆発し10代の特攻隊員23人を含む111人が亡くなりました。この出来事は一地域の不慮の事故では終わりませんでした。さらにこの事故はアメリカ艦隊と交戦中という誤った情報となって西日本各地の部隊に伝わったのです。各地では「即刻戦闘に移れる態勢を取れ」という新たな命令が下されました。大分や高松の航空部隊からは約10機の飛行機が離陸。もしアメリカ軍と遭遇すれば一触即発の緊迫した事態を招くことになったのです。こうした日本の動きをアメリカは把握していました。

 

8月16日、政府と大本営は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーから「即時、戦闘停止せよ」という強い命令が書かれた電報を受信。この命令は大本営に苦渋の選択を迫るものでした。日本に宣戦布告したソ連は8月6日以降、満州や日本の領土だった南樺太などに侵攻。軍人だけでなく民間人も犠牲となっており戦闘停止命令を出せば被害がもっと大きくなる可能性があったのです。宮崎は海軍部と共に国内外に展開する全ての部隊に対して「即時戦闘行動を停止すべし ただし停戦交渉成立に至る間 敵の来攻にあたりてはやむをえざる自衛のための戦闘行動はこれを妨げず」という条件付きの戦闘停止命令を下しました。しかし、この命令は国内の混乱を持続させることになりました。

 

8月17日、連合国との交渉を担う内閣が2日ぶりに成立しました。総理大臣に就任したのは皇族の東久邇宮稔彦王でした。東久邇宮はすぐに政府と大本営のトップが集まる最高戦争指導会議を開催。マニラにいるマッカーサーから進駐についての打ち合わせに来るよう再三催促を受けており早急に対応を協議する必要があったのです。会議ではマニラに派遣する代表を決定し、連合国側に進駐を受けるまでのプロセスを日本としての案を提示することにしました。

 

午後1時頃、関東上空に2機の米軍機が飛来。アメリカは15日以降、日本に進駐するための準備として連日関東上空を偵察に来ていたのです。警戒態勢をとっていた横須賀の海軍航空隊ではパイロットたちが次々に離陸し、14機が米軍機への攻撃に参加しました。攻撃を受けたB-32爆撃機のうち1機は大きな損害をこうむり、戦闘によってアンソニー・マルチオーネ軍曹が銃弾を受けて死亡しました。

 

8月18日、大本営は前日から皇族の朝香宮鳩彦王を支那派遣軍に派遣。総司令官の岡村寧次に終戦は天皇の意思であることを伝え強硬な態度を取らないよう念を押しました。各部隊には天皇の意思は伝えられていましたが兵士たちはどうしても負けを認める気にはなれなかったと言います。同じころ日本各地の部隊でも緊迫した状況が続いていました。高知県の震洋隊の基地でまた事件が起こったのです。それは第二一突撃隊司令部のある幹部の行動から始まりました。幹部は船で配下の部隊をまわり最後の一兵になるまで徹底抗戦せよと迫ったのです。このとき、幹部の要求に異をとなえたのが渡邊國雄中尉。渡邊中尉は毅然と要求を拒否したと言います。この渡邊中尉の行動が張り詰めていた特攻部隊の空気を大きく変え始めました。実はこうした行動を起こしたのは渡邊中尉だけではありませんでした。

 

8月19日、マニラに日本の代表団が到着し、アメリカ側と進駐に関する打ち合わせにのぞみました。進駐軍と国内の軍隊が衝突するのを避けるためできるだけ時間稼ぎをしたいと考えていた日本ですがアメリカは一方的に「まず進駐を行う」と通告しました。停戦交渉などのプロセスをはぶき26日に進駐が設定されました。実はこのころソ連の侵攻はさらに進み、アメリカは日本側の事情を考慮する余裕はないと判断し待ったなしのスケジュールを突きつけてきたのです。陸軍作戦部長の宮崎周一は海軍とともに日本本土の主だった部隊に対し「八月二十二日午前零時をもって一切の戦闘を停止する」と命令を下しました。

 

8月30日、厚木飛行場にダグラス・マッカーサーが到着し、連合国占領下での日本の戦後が始まりました。9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書の調印式が行われ、国際法上日本の敗戦が決定づけられました。9月下旬からは海外の前線にした約300万人が兵士たちも復員してきました。


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