チッタウルガル城砦&悲劇の王妃の物語|古代文明ミステリー

中世、この地方には戦闘を得意とし高い地位を持ったラージプートという一族が住んでいました。インドの最西端に位置するラジャスタンは、ペルシア帝国やイスラム帝国など強国からの侵攻の危機に常にさらされた結果、一族は強靭な武力を身につけていました。

 

7世紀、イスラム勢力がラジャスタンに侵攻する中あくまで抵抗を貫きチッタウルガルを都とするメワール王国を建国したのがパッパ・ラワルです。

 

チッタウルガル城砦には、キルティ・スタンバという塔が建っています。この塔はヒンドゥー教ではなくジャイナ教の塔です。ジャイナ教は元々インドでの主流であったバラモン教に対抗する形で誕生しました。

 

ジャイナ教には5つの厳しい戒律があり、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有と虫を殺すことすらかたく禁じられています。また仏教と共に現在のヒンドゥー教への大きな影響を与えたと言われています。

 

ジャイナ教にはいくつか宗派がありますが、キルティ・スタンバを建てたのは裸行派。裸行派の僧は今でも衣服を身に着けないそうです。しかし、なぜヒンドゥー教の王国に異教の塔が建っているのでしょうか?

 

元来この土地にはジャイナ教徒たちも住んでいました。彼らは少数派ではありますがとても商売上手で裕福でした。

 

そんな裕福なジャイナ教徒の存在に目をつけたのが当時のメワール国王。王はジャイナ教徒たちに寺院などの建造物を建てることを認め、代わりに彼らから税金を徴収しました。その結果、ジャイナ教徒たちのお金を使い武器の調達や城壁の補強が可能となったのです。

 

チッタウルガル城砦には無数の貯水池があるため「水の砦」とも呼ばれています。チッタウルガルの貯水池は全部で84あり、水は全て雨水です。ラジャスタンで最も降水量が多いこの地域にはモンスーンの時期に大量の雨が降ります。その雨水を溜め生活用水として使っていたのです。チッタウルガル城砦内には多い時で3万5000人もの人が住んでいました。

 

悲劇の王妃の物語

そんなチッタウルガル城砦を攻めたのは、デリー・スルタン朝の王アラウディンです。アラウディンは自らを第二のアレクサンドロス大王と称すほどの勇猛果敢な王でした。そのアラウディンがインド中で評判の美女パドミニを我が物にしようとチッタウルガルへ攻め込んだのです。

 

ラーニー・パドミニー

 

ところが、あまりに屈強な城砦を前に攻略は失敗。そこでアラウディンはパドミニの夫であるメワール国王に「パドミニを一目拝ませてくれ。そうしたら諦めて立ち去ろう」と頼みました。

 

伝説によるとアラウディンはメワール国王に呼ばれ水面にうつるパドミニの姿を見せられたと言います。アラウディンは諦めるどころかパドミニを奪うため圧倒的な兵力で猛攻を仕掛け、国王を含む城の男たちはみな戦死してしまいました。

 

パドミニや城に残された女性たちは城の一角に集まり、自ら火を放ち次々に火の中に身を投げ殉死していきました。こうしてチッタウルガル城砦は陥落。イスラム軍の手に渡りました。

 

その後、ラージプート族は2度チッタウルガルを取り返すも1567年、3度目のイスラム軍による攻撃でチッタウルガルを捨てることを決断。新たな場所に移り住みました。チッタウルガル城砦に残ったイスラム軍は数年で引き上げ、城砦はそのご廃墟と化しました。

 

「古代文明ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」

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