2013年11月1日、タイのバンコクで坂本芳信(さかもとよしのぶ)が逮捕されました。彼は長野県建設業厚生年金基金の事務長をつとめ、23億8334万円もの巨額な資金を横領。
しかし、タイで身柄を拘束されたのは家賃8000円のアパート。所持金は1万円でした。23億円は一体何に消えてしまったのでしょうか?
事件の前の暮らし
1989年、坂本芳信は長野県長野市に妻と小学生の子供2人と暮らしていました。裕福とは言えないものの、ごく普通の幸せな父であり夫でした。そんな彼の仕事場は長野県建設業厚生年金基金。
県内の建設関係600社が加入し1万5000人ほどの加入員から掛け金を集め運用し、60歳以上の退職者には年金を給付していました。
坂本芳信は事務長代理。大卒ではありませんでしたが、真面目一筋で上司からの信頼も厚かったのです。300億円もの巨額資金を少人数で運営する事務局の仕事に坂本芳信はやりがいを感じていました。
このとき、世はバブル絶頂期。その波は長野県にも。好景気にわく建設業の社長たちが名を連ねる理事は、羽振りの良さの自慢話ばかり。彼らの基金をしきる坂本芳信は年収400万円。同世代のサラリーマンよりも少ないくらいでした。
しかし、すぐにバブルは崩壊。株価の急落が始まると坂本芳信の職場にも大きな危機が訪れました。バブルの頃は株価の高騰で年金を運用しても大きな利益がありましたが、バブル崩壊後は損失続きとなったのです。上司は坂本芳信を責めました。そして、掛け金をおさめられなくなる加入会社も多くなりました。
横領の始まり
そんな時、誘われて韓国スナックへ。それが坂本芳信の運命を大きく変えることになってしまいました。スナックにいる時は嫌な事を忘れられ、女性を気に入り頻繁に通うように。気がつくと月に20万円もつぎこんでいました。妻には内緒で銀行のカードローンを組み少しずつ借金を繰り返しました。
そんな時、それまでの常務理事が退職し事務局に新たなトップがやってきました。すると不慣れな常務理事に代わり事務局内での坂本芳信の権限は強まっていきました。
ある日、事務局にある大量の切手の一部を売り2400円を着服。このわずかな額の換金が巨額横領事件へと突き進む始まりでした。切手を換金する額は徐々に増えていきました。
その頃、坂本芳信のいる厚生年金基金は建設業界の不況続きで入ってくる掛け金が減り、高齢化に伴い受給者は増加。年間の給付赤字が10億円にのぼっていました。2000年に基金の赤字を解消するため投資先の制限など様々な規制が緩和されました。つまり、それぞれの基金の責任でハイリスク・ハイリターンの商品への運用が可能になったのです。
この頃、坂本芳信は事務長に昇進。坂本芳信は加入会社から納められた掛金を全額、総幹事会社である生命保険会社に送金する業務を担当。すると、東京のファンド運営会社の代表が頻繁に坂本芳信のもとを訪れるようになりました。坂本芳信は何度も誘われ港区にあるファンド運営会社を訪れました。高級料亭での接待を受け、夜の銀座へ連れられました。自分には無縁だった美人がそばに座り優しくしてくれました。
坂本芳信は長野県で生まれ育ち、高校時代まで地味でずっと目立たないおとなしい少年でした。そんな坂本芳信には「黄金時計を持つ男」というあだ名がつけられていました。高校生にしては珍しい金色の腕時計をしていたからです。華やかなものへの憧れだったのかもしれません。
そんな坂本芳信にはこの接待が大きく効きました。接待攻撃をたびたび受け、男から金ももらった坂本芳信は厚生年金基金の新たな運用先に港区のファンド運営会社を指名。この方面には素人同然の役員たちに男は響きのいい言葉でプレゼンテーション。事務長が推すなら異論はないと年金の資産運用は男のファンド運営会社に委託されました。
男と坂本芳信は公私にわたってズブズブの関係に。もはや男から現金を貰うのは当然になり、銀座のクラブへ。東京で華やかな時間を堪能する一方、長野の勤務先ではいつも通り真面目に。
そんな時、事務局のトップ常務理事が退職し経費削減のため常務理事は空席となりました。坂本芳信が事実上のトップとなったのです。
男から貰う現金は1000万円を超えていましたが、返済できていない借金は270万円もありました。一人で東京へ出かけ遊ぶ金の方が上回っていたからです。
エスカレートする横領
そして2005年6月3日、坂本芳信は大胆な手口で横領を始めました。いつも同じはずの引出し額と振込額をかえ、その差額を着服したのです。驚くほど雑で大胆な手口でしたが、坂本芳信は堂々と行いました。横領した金はクラブなどでどんどん使い5700万円も横領した金は5ヶ月で使い果たしました。
その後も同じ方法で1度に数千万円ずつ横領。やがて、すべて自分でやるのが煩わしくなり、事務員に伝票を提出させ現金を受け取る所だけを自分が行うように。こうして2006年には3回、2007年には6回、計9回に渡って3億5000万円を横領。その多くを東京に行ってホステスに貢いでいました。
そして、ホステスにバカにされないように長野では借家に暮らしながら全く別のゴージャスな自分を作り上げていきました。東京での移動はハイヤーを借り切り、高級ホテルのスイートルームに泊まり、英国高級ブランドのスーツを身に着け、数百万円の腕時計をいくつも持つように。夜の街では早稲田出身の実業家と語り、常に3人のホステスと付き合い横領した金で贅沢三昧させていました。
ところが2007年11月29日、関東信越厚生局による行政監査が入り常務理事が空席ということが問題に。2008年に非常勤の常務統括理事が置かれましたが、選ばれたのは地元の建設業界の関係者。横領など見抜けるはずもありませんでした。
この年の9月、リーマンショックによって世界的金融危機に。そんな世の流れとは逆行するように坂本芳信の金づかいは常軌を逸していきました。馴染みのママに銀座のビルにクラブを開店させてやり、屋形船を貸切りホステスとパーティー。水着になった子には5万円あげていたと言います。
2009年8月、生命保険会社の担当者が入金額のチェックにやってきました。担当者は加入人数に比べて入金が少なすぎると指摘しましたが、坂本芳信は保険会社の運用額を下げるとおどしました。横領は43回、23億円にもなっていました。
それでも坂本芳信は金を使い続け、自分のクラブのホステスを連れて1週間のハワイ旅行を6回も行いました。銀座の高級すし店の職人を同行させ連日すしパーティーを開いていたと言います。
横領発覚まで
2010年8月19日、掛け金の入金額があまりにも少ないことを生命保険会社が理事長に直接連絡。理事長は坂本芳信を呼び出しました。すると坂本芳信は「加入業者から掛け金の返還を求められ応じた」と答えたのです。その額21億9000万円。もちろんこれは坂本芳信の嘘ですが、公的年金である厚生年金は基金の独自の判断で返還してはいけないものです。これが事実なら理事長も責任を負うことに。何とかその場を乗り切ったものの、厚生労働省による特別監査を受けることになりました。
そして2010年9月7日、特別監査が行われました。坂本芳信は21億9000万円を振り込んだとされる銀行の振込受付書38枚を偽造。しかし、バレるのは時間の問題でした。
基金は掛金を返還したとされる所へ確認の連絡を入れ、掛金は返還されていないことが発覚。そして理事長が振込受付書を銀行に確認すると銀行印が偽造されていることが判明。ついに坂本芳信の横領が発覚したのです。
2010年9月12日、長野県建設業厚生年金基金は被害届を提出。その後の調べで横領額は23億8334万円と判明しました。さらに、坂本芳信が運用を委託したファンド運用会社も68億円という未公開株への投資が失敗に。
タイへ逃亡
その頃、坂本芳信はタイのバンコクにいました。持ち出した金で高級コンドミニアムに暮らし複数のタイ人女性と交際。1年ほどで金を使い果たし3年2ヶ月の逃亡の後、2013年11月1日に身柄を拘束されました。
タイからの帰国後、坂本芳信は妻と離婚。裁判では罪を全面的に認めました。
2014年6月25日、長野地裁は懲役15年、追徴金430万円の実刑判決を言い渡しました。控訴はせず刑が確定。しかし、坂本芳信が事務長だった頃364億円あった基金の資産は79億円にまで減少。これは加入事業所が負担せざるおえない状況です。その負担額は一人あたり300万円にもなります。
「ザ!世界仰天ニュース」
23億円横領事件
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