古人の姿を澄み切った画面に表した日本画家がいます。明治から昭和にかけて活躍した安田靫彦(やすだゆきひこ)です。しかし、その澄んだ画面とは裏腹に下絵に引かれた無数の線。完璧なまでに構図を突き詰める執念すら感じられます。
そして戦争の時代、どんなに殺伐とした空気が満ちようとも絶えず柔らかな古の美を見つめていました。
安田靫彦は若い頃から古代を描く達人でした。明治33年、歴史画家のもとで学んでいた16歳の時の作品が「遣唐使」です。晴れがましい名誉をさずかった遣唐使ですが、安田靫彦は危険な航海に旅立つ者と、その身を案じる家族との別れの場面を描きました。名もなき人々の感情を静かにとらえています。
当時、西洋化の波が絵画にも押し寄せていました。新しい時代、日本画は何を描くべきか、その模索をしていた岡倉天心(おかくらてんしん)に早熟な才能を見出された安田靫彦。日本美術院へ招かれチャンスをつかみました。
23歳の時、岡倉天心の計らいで奈良で学ぶことに。そこで生涯心に描き続ける理想の美と出会いました。法隆寺金堂壁画です。安田靫彦は弁当持参で金堂へ通い、暗がりに浮かぶ仏の姿を夢中で模写しました。
安田靫彦は古の芸術に永遠の輝きを見出しました。新しい時代にむしろ古典の中に無限の可能性があるのではないかと自分の目指す方向を確信したのです。
しかし、2年の予定だった奈良滞在の途中で結核を患い9か月で断念。療養の日々を送ることになりました。
体調が回復するのを待ってとりかかった作品が「夢殿」です。仏教の経典の解釈に悩む聖徳太子が夢殿にこもり瞑想にふけっていると、金色に輝く僧侶が現れ教えを授けたという伝説の一場面です。女性たちは聖徳太子が見ている夢の光景です。安田靫彦は淡い色調の澄んだ画面で聖なる雰囲気も醸し出しました。
日本人は元来、調子の高い澄みきったものを好みます。幾本の線で現したものよりも、その中の決定的な一本の線で現したものを尚びます。
(安田靫彦)
日本の美に流れる澄みきったものを目指して安田靫彦がまず探求したのが線でした。その技がさえわたった作品が「居醍泉」です。生死の境をさまよった日本武尊が泉の水で蘇った場面を描いています。用いたのは感情を込めずに均一な線で描く鉄線描と呼ばれる手法。法隆寺金堂壁画から学んだものです。端正な線描は安田靫彦の澄みきった画面に欠かせないものとなっていきます。
50代半ばで安田靫彦は大作に挑みました。近代日本画史上最高の傑作とも評される「黄瀬川陣」です。平安時代末、兄・源頼朝と生き別れになっていた弟・義経との劇的な再会の場面です。
安田靫彦が参考にしたのは、日本三大鎧の一つに数えられる赤糸威大鎧。鳩尾、栴檀と呼ばれる胸の板の飾りは三山になっています。ところが、安田靫彦が描いた頼朝の鎧は二つの山の形。実は同時代に作られた別の鎧のデザインを取り入れて自在に組み合わせていました。
一方の義経の鎧にもこだわりがつまっています。例えば胴の部分に描かれたひし形の柄もその一つ。紫裾濃大鎧の胴につかわれている画韋(えがわ)と呼ばれる皮の部分を見てみると、実際の鎧は獅子の文様になっています。しかし、安田靫彦はデザインをまた別の鎧から持ってきていました。しかもその文様は鎧の裏側に使われていたもの。義経の時代に近いものを探し続けるうちに見つけたものでした。考証と画面作りに注いだ並々ならぬ情熱が伝わります。
安田靫彦が美を見極める感性を磨いたのは、30代で居を構えた神奈川県の大磯でした。大磯のシンボル高麗山を奈良の山のようだと言って気に入っていました。体調は一進一退を繰り返していました。外で長い時間の写生もできないため、ほとんど家の中で過ごす日々。
そんな安田靫彦の最大の楽しみは古美術収集でした。収集した古美術の数々を制作の糧となる「やしない」と呼びました。当時、気味悪がられて手を出す人が少なかった古代の墓からの出土品も安田靫彦は気にせず、美しいと思えば集めていきました。客が来ると次々とコレクションを披露し、部屋が箱でいっぱいになることもしばしばだったと言います。
「黄瀬川陣」が発表されたのは太平洋戦争の直前でした。安田靫彦は奉祝展覧会の審査員をつとめ、自らも「黄瀬川陣」を出品しました。駆け付けた義経の姿は、国難にはせさんじる国民の心情を表したと人々に受け止められました。しかし、安田靫彦が表したかったのは兄弟の行く末でした。その手がかりが2人の間に描かれています。
幼少から安田靫彦の周りには死がつきまとっていました。生後半年で母が亡くなり、12歳で父とも死別。自らも30歳までは生きられないと言われていました。安田靫彦は桃を好んで食べたと言われています。理由は桃は生命が延びるようだから。絵にかける思いを妻がふりかえっています。
「お父さんの一番大切なものは何ですか?」と聞いたことがあるんです。すると「まず生命、次に絵。その他は何もない」と言うんです。「それでは家の者は可哀想じゃないですか?」と言うと、「それはしょうがない」とハッキリ言っておりました。
80歳になって安田靫彦は19歳の時に見た奈良の大和三山を絵にしました。優美な文化が花開いた古の姿を山々と共に表したいとずっとあたためていたのです。そして描いたのが「飛鳥の春の額田王」です。
最晩年、床に伏せがちだった安田靫彦に妻が「退屈でしょう?」と声をかけました。すると安田靫彦は「絵のことを考えているから退屈しない」と答えたと言います。柔らかさの中に強靭さを隠し持った94年の生涯でした。
「日曜美術館」
安田靫彦 澄みきった古を今へ刻む
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