日本中が沸いたロイヤルウエディング
昭和12月4月、日本の侯爵家の令嬢と満州国皇帝一族の結婚が行われ、日本と満州国を結ぶ華やかな婚礼に日本中が沸きました。
新郎の国・満州国は昭和7年に中国東北部に建国されました。皇帝の位についたのは清朝最後の皇帝、ラストエンペラーと呼ばれた愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)です。
新郎は皇帝の弟の溥傑(ふけつ)で、軍事について学ぶため日本に留学していました。溥傑を日本の女性と結婚させ、日満両国の親善を深めようと計画されました。
しかし、新婦の方は最初はあまり乗り気ではなかったと言います。結婚相手に選ばれたのは嵯峨侯爵家の長女・嵯峨浩(さがひろ)当時22歳。突然持ち込まれた見合い話な上、相手は日本人ではなく外国の男性ということで浩はただ戸惑うばかりでした。
気持ちの整理がつかないままお見合いの席にのぞんだ浩ですが、溥傑の第一印象は想像とは違っていたと言います。心を覆っていた不安が薄らぎ、結婚を受け入れました。
そして昭和12年4月、2人の結婚式が執り行われました。しかし、浩はこの結婚がきっかけで過酷な人生を歩むことになったのです。
夢と現実のはざまで…
満州国のスローガンは五族協和。日本、モンゴル、満州、朝鮮、漢民族が力を合わせ理想国家を築くとうたっていました。
結婚から半年後、満州に渡った浩と溥傑は新京で生活を始めました。しかし、自由な生活は許されず、出かける時は必ず見張りがつき逐一上司に報告。浩たちは厳しい監視下におかれたのです。
実は満州国には大きな秘密がありました。それは満州に駐屯する関東軍の存在です。関東軍は軍隊や警察、官僚の人事まで満州国の中枢を握っていました。関東軍にとって皇帝・溥儀や浩たち一族は、意のままに操る存在で、勝手な行動をしないように見張る必要があったのです。日満親善の理想とはかけ離れた現実がありました。
さらに、義理の兄である溥儀までもが浩をつきはなしました。溥儀は、浩が関東軍のスパイで自分を毒殺するのではないかと疑っていたと言います。宮殿の中にも浩の居場所はなかったのです。
そんな辛い毎日を支えてくれたのは夫の溥傑でした。溥傑もまた皇帝の弟でありながら実質的な権限はなにもなく歯がゆい思いを抱いており、浩の思いを受け止め寄り添いました。
その後、2人の間には女の子が2人生まれました。溥傑はすっかり子煩悩な父親となり、一家4人水入らずで過ごす楽しい時間に浩はささやかな幸せをかみ締めていました。
しかし昭和20年、太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚となると浩たちを取り巻く環境は一変しました。8月9日、突然ソ連軍が国境を越え満州国に侵攻。首都・新京に迫ってきました。関東軍は新京から撤退し、皇帝一族も新京を脱出することが決まりました。
5日後、浩たちは国境近くの街・大栗子に移動。そこから溥傑は皇帝につきそい空路で、浩たち女性は陸路で日本を目指す計画でした。日本での再会を約束し、しばしの別れを告げた浩と溥傑ですが、これが夫婦の苦難の旅路の始まりでした。
8月19日、夫の溥傑は飛行場でソ連軍に拘束されてしまいました。さらに、浩たちも中国共産党軍に捕まってしまいました。浩たちは日本に協力した罪を問われ留置所に収容。共産党軍の厳しい取調べが待っていました。
さらに、昭和21年2月、突然兵士たちが留置所に乱入し銃撃戦が始まりました。日本の敗戦後、中国では国の主導権をめぐって共産党と国民党が抗争を繰り広げ、そこに関東軍の残存部隊も加わって激しい内戦状態となっていました。浩たちはその戦闘に巻き込まれてしまったのです。戦闘は2時間余り続き、部屋のあちこちに死体が横たわっていたと言います。
その後も浩の苦難は続きました。激しい内戦が続く中を連れまわされ長春、吉林などを転々と移動。延吉の街についた時には溥傑と別れて1年近くが経とうとしていました。その後も半年間各地を転々とした浩たちは、ついにソビエトとの国境近くの街で釈放されました。
そして昭和22年1月、日本に着きました。1年半に及ぶ厳しい生活に耐えさせたのは、もう一度夫に会いたいという強い願いでした。
夫婦の心をつないだ愛の往復書簡
昭和22年1月、帰国した浩と次女は進学のため日本に預けていた長女と実家の嵯峨家に身を寄せました。流転によって浩の体重は33kgにまで落ち込み療養が必要でした。
体力が戻ると、浩はすぐに夫の消息を求めソビエトからの引揚者をたずね歩きましたが、確かな情報を得ることはできませんでした。浩は中国やスイスの赤十字社にも手紙を出しましたが、返事はありませんでした。夫の行方が知れぬまま7年の歳月が過ぎました。
昭和29年秋、夫からの手紙が届きました。1949年10月、中国では共産党軍が内戦に勝利し中華人民共和国を建国。中国政府はソビエトから捕虜を引き取りました。溥傑も兄・溥儀と共に中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容されました。
中国政府は溥傑の真面目な生活態度を評価し、日本にいる妻に手紙を書くことを許可。これ以後、2人はその距離を縮めるかのように手紙を交わしました。2人は手紙を通じて励まし合い、再会を待ち続けました。
浩が真っ先に夫に伝えたのは2人の娘の成長ぶり。夫がそばにいない今、娘たちを立派に成長させることが自分の一番の役目と浩は考えていました。
手紙のやりとりが始まって3年、悲劇が起こりました。長女が亡くなってしまったのです。友人だった男性に心中を迫られ死に至ったとも言われています。2人は手紙を通じて悲しみを分かち合い、互いに労わり続けました。
長女の死から2年、中国政府は建国10年を記念して戦争犯罪人の釈放を決定。翌年、溥傑は釈放されました。政府が用意した北京の住宅に住み、公園を管理する仕事に就くことが条件でした。
そして昭和36年5月、浩は次女を連れ夫のもとに向かいました。16年ぶりの再会でした。夫婦の長い苦難の旅はようやく終わりを告げたのです。
夫婦が晩年一緒に暮らした家が、中国・北京に残っています。庭に生い茂るハナカイドウの木は、二人が一緒に植えたものです。別離の時間を取り戻すように二人は仲むつまじく暮らしました。
昭和49年12月、二人は戦後初めて一緒に日本を訪れました。そして昭和62年6月20日、浩は亡くなりました。
浩が亡くなった後、溥傑が訪ねた思い出の地が新婚時代に暮らした千葉・稲毛の家です。溥傑はその時の感慨を漢詩に残しました。
短いあいだではあったが新婚当時は夢のようだった。昔のままの家と庭を見ていると恋しい情が次々と湧いてくる。愛しい妻の姿と笑顔を今どこに。
浩亡き後も愛する妻の面影を思い続けた溥傑ですが、浩の死から7年後の平成6年2月28日に亡くなりました。
幾多の困難を乗り越え、最後の瞬間まで寄り添った浩と溥傑。2人を支えたのは、ひたむきに互いを信じあう揺るがぬ心でした。
「歴史秘話ヒストリア」
満州のプリンセス愛の往復書簡
~夫婦の心をつないだ55通~
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