哲学、宗教から脳科学まで様々な分野を自ら取材してきた作家・立花隆(たちばなたかし)さんが挑んでいる謎は人の心です。それは魂や意識とも呼ばれてきたものです。
私たちの心はどのようにして生まれるのか?
死んだらどうなるのか?
これまで科学者たちは、心のメカニズムについて脳波から遺伝子にいたるまで様々な手法を駆使して探ってきました。しかし、膨大な研究をもってしても脳と心の詳しい関係について解明できませんでした。
立花隆さんがこの謎を解く大きな鍵だと考えているのが臨死体験です。心停止などで脳が活動しなくなったと思われる人たちが見るという不思議な現象です。心が体を抜け出し、光輝く美しい世界に行き着くという体験。心は死んでも存在し続ける特別なものだと体験した人の多くが考えています。
しかし今、この不思議な現象を脳の働きで解き明かそうという研究が急速に進んでいます。
臨死体験 深まる謎を追う
今、心停止から蘇生した人の5人に1人は、臨死体験をしているとも言われています。臨死体験は、心停止や深刻な昏睡状態で脳が全く働いていないと思われる時にする体験です。臨死体験者の証言によれば、その内容には似通った特徴があります。
まず、自らの心が体を抜け出すのを感じると言います。体外離脱と呼ばれる現象で、天井付近からその場に横たわる自分の体や医師たちの姿を見たりします。その後、トンネルのような場所を通って光輝く美しい世界へと導かれます。これは神秘体験です。親しい家族や友人に会い「人生を全うせよ」と言われます。ここで全知全能の大いなる存在に出会い幸福な気持ちに満たされます。
臨死体験の謎
今、全米で最も注目を集めている臨死体験者がエベン・アレキサンダー博士です。彼は著名な脳神経外科の医師です。6年前に臨死体験をしてからは自らの体験を伝えようと講演して回るようになりました。
エベン・アレキサンダー博士が臨死体験をしたのは脳を細菌におかされ昏睡状態に陥った時のことです。それまでは脳が機能しなくなれば心も消えると考えてきました。しかし、その考えは病気から回復し自分の医療データを洗いなおした時、大きく揺らぎました。
昏睡に陥って3日目、アレキサンダー博士の脳は炎症による膿で血管が圧迫され血液が流れなくなっていました。さらに、生命の維持に欠かせない脳幹まで損傷し脳波は観測されなくなりました。脳の活動は止まり、生還できる可能性は2%と診断されました。そんな状態だった7日の間に臨死体験をしたと言います。
無数の蝶が飛び交う景色を見た後、荘厳な門がそびえ立つ世界を訪れ、最後に神聖な存在がいる場所に導かれました。
脳が働いていない時にこの体験をしたのだから、脳と心は別の存在だと主張しています。
ジャクソン・バワーズくん(4歳)は生まれてすぐに臨死体験をしたと言います。生後1ヶ月の時にインフルエンザをこじらせ肺に穴があき、呼吸が出来なくなりました。4ヵ月後、ジャクソンくんは奇跡的に回復。2歳になった頃、ジャクソンくんは病院での体験を話し始めたと言います。彼の心は体を抜け出し医師や母親の姿を見ていたそうです。
臨死体験を科学は解き明かせるのか?
ミシガン大学の神経科学ジモ・ボルジギン准教授は、死ぬとき脳はどうなるのかについて動物を使って研究しています。ここでは、普通の方法では観測できない微妙な脳活動を特別な手法で測定しています。
ネズミの脳に直接電極を入れて実験しました。ネズミに薬物を投与し心停止を起こさせ、この時の脳の奥深い部分の脳波を詳細に調べました。すると、これまで分からなかった微細な脳波が見つかったのです。
これまで医学的には心停止を起こすと数秒で脳への血流が止まり、脳活動は止まるとされてきました。ところが、心停止後も微細な脳波が見られたのです。それは数十秒間続いていました。脳波が非常に小さかったため、これまで脳は活動していないと考えられていたのです。
臨死体験をしている人の脳も一見活動していないように見えて、実は活動しているのかもしれません。
体外離脱現象
立花隆さんが詳しく調べ始めたのは体外離脱現象。体から心が離れていくという現象です。すると、これを脳内の現象として説明した論文が見つかりました。国際的な脳研究の専門誌に発表された「体外離脱と自己像幻視の神経学的起源について」です。
論文によると人工的に体外離脱の感覚を作り出せると言います。研究は、てんかんの治療のため脳に電極が埋め込まれた患者に対して行われました。
患者の脳を電気で刺激すると体外離脱の感覚を得たというのです。刺激を続けると次第に体が浮遊し、自分を上から見ている感覚を抱いたと言います。刺激したのは脳の角回と呼ばれる部分です。角回は体の感覚や視覚、聴覚など様々な感覚を司る部分を繋いでいます。ここを刺激することで脳の各部分が誤った働きを起こし、自分の心と体が分離したかのような感覚が生じたと指摘しています。
立花隆さんはスウェーデンのカロリンスカ研究所で、体の感覚に異常を起こさせる実験に参加しました。まず、目隠しをして実験室に入り映像が映るゴーグルをつけます。カメラが映しているのは人形の足。立花さんには人形の足がまるで自分の足のように見えるのです。立花さんの足を棒で刺激しながら、同じタイミングで人形の足を刺激する映像を映します。触られている感覚と見ている映像が混じりあい、人形を自分の体だと感じ始めます。立花さんは心が自分の肉体を離れ人形の体に移ったという感覚を抱くようになったと言います。
偽の記憶
理研MIT神経回路遺伝子センターの利根川進さんはノーベル賞受賞後、記憶の仕組みについて研究してきました。現実には起きていない偽の記憶(フォールスメモリー)をネズミにうえつけることが出来たと言います。
実験ではまず、脳のある部分を刺激すると記憶を思い出す特殊なネズミを作りました。このネズミを安全な部屋に入れ部屋の様子を覚えさせました。次にネズミを別の部屋に入れ、脳を刺激し前に見た安全な部屋のことを思い出させます。その時、同時に電気ショックを与えると電気ショックを安全な部屋で受けたというフォールスメモリーが出来てしまい、ネズミは安全な部屋を怖がるようになったのです。人間でもある状況下ではフォールスメモリーが起こると言います。
人にフォールスメモリーを作り出す実験もあります。まず、被験者の子供の頃の家族写真を切り抜き全く行ったことのない別の写真に合成。気球旅行に行ったという偽の家族写真を作りました。その偽の写真を本物の写真に混ぜ「いつ行ったのか?どんな旅行だったのか?」を繰り返し聞いていくと、最初は偽の写真について「記憶はない」と答えますが、質問を繰り返すうちに答えは変わっていきます。質問を繰り返すうちにフォールスメモリーが作られてしまったのです。
人間はフォールスメモリーを作りやすい動物だと利根川さんは考えています。それは脳が高度に発達し、想像力を持っているからです。人間は誤った記憶や感覚を本物だと信じてしまう生き物なのです。
臨死体験者の不思議な記憶は、想像力を働かせるうちに作り上げられたフォールスメモリーなのかもしれません。
心はどのように生まれるのか
今、心の正体に迫る新しい研究分野が急速に注目を集めています。それは心の一部である意識の研究です。
心の一部である意識は、これまで科学において究極の謎と言われてきました。感覚、感情、行動、記憶など脳内には様々な機能があります。しかし、人の心はこれらの機能だけでは成り立ちません。機能全てを1つの統合するものが必要なのです。それが意識です。
意識は、その人らしさを作り出す自我です。なぜ意識は究極の謎なのか?それは長年の研究にも関わらず意識を生み出す神経細胞が脳内のどこに存在するのか全く分からなかったからです。
ところが、今この謎について科学者たちはその糸口をつかみ始めています。ウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニ教授は意識研究に革命を起こしたとも言われる科学者です。トノーニ教授が提示したのは意識が脳内で生まれる全く新しいメカニズムです。それが他の研究者によっても実証されつつあるというのです。
人間の意識は複雑に絡み合った蜘蛛の巣のようなものだというのがトノーニ教授の理論です。きっかけは睡眠に関する研究でした。
深い睡眠をしている時と起きている時、神経細胞の繋がり方はどう違うのかトノーニ教授は着目。そこで脳内に微弱な電気を送り込み、その流れを追いました。神経細胞がつながっていればいるほど、広い範囲に電気が流れることを利用したのです。
すると、神経細胞は起きている時だけ蜘蛛の巣のような複雑な繋がりをしていることが分かりました。トノーニ教授はこの複雑な繋がりこそが意識だと考えました。統合情報理論と呼ばれています。
脳の中には熱い・寒いなどの感覚に関する情報や、楽しい・悲しいなどの感情、過去の出来事の記憶など膨大な情報があります。トノーニ教授はこれらの情報が複雑に繋がり蜘蛛の巣のように一つにまとまったものが意識だと考えました。
つまり意識は脳内の特定の細胞にあるのではなく、膨大な神経細胞が複雑な繋がり方をして一つに統合された時に生まれるというのです。
さらに、トノーニ教授は意識の大きさを世界で初めて数式で表しました。極めて複雑な数式ですが、脳内の神経細胞の数が多く、繋がりが複雑であればあるほど意識の量が大きくなることを表しています。この理論が完全に実証されれば、脳が死ぬと神経細胞の繋がりはなくなり心は消えることになります。さらに、この理論は新しい世界観を示しています。
鳥や動物、昆虫でも脳内には複雑な繋がりがあるので脳の大きさに応じた意識があることになります。そして機械でも複雑な情報の繋がりを持つよう設計すれば意識が生まれることになります。
臨死体験 人はなぜ神秘を感じるのか
ケンタッキー大学医学部脳神経外科のケビン・ネルソン教授は、臨死体験で神秘体験をするのは脳の辺縁系によるものだと言います。神秘的な感覚は辺縁系で起こる現象なのです。辺縁系は長年の研究によって睡眠や夢という現象の中心的な役割を担っていることが分かっていました。
ネルソン教授は、神秘体験と夢が似通った現象であることを明らかにし、次のような仮説を立てました。
死の間際、辺縁系は不思議な働きをします。眠りのスイッチを入れると共に覚醒を促すスイッチも入れるのです。それによって極めて浅い眠りの状態となり、目覚めながら夢を見るいわば白昼夢のような状態になります。
さらに、辺縁系は神経物質を大量に放出し、人を幸福な気持ちで満たします。こうして人は死の間際に幸福感に満たされ、それを現実だと信じるような強烈な体験をするのです。
ネルソン教授は、神秘体験は人が長い進化の過程で獲得した本能に近い現象ではないかと考えています。そして、臨死体験をしやすい人は夢を見やすい脳を持っていることも分かっています。
その鍵となる辺縁系は脳の古い部分で、進化の初期段階で生まれたものです。そのため、神秘体験をする能力は人間にもともと備わっていたものなのです。
「NHKスペシャル」
臨死体験 立花隆 思索ドキュメント
死ぬとき心はどうなるのか
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