1957年、アメリカ・ニューヨーク、バート・プガシュは法律学校を優秀な成績で卒業後、弁護士となり事務所を設立。若くして財を成しました。その後、事業を拡大し映画プロデューサーやナイトクラブの経営も手掛けた彼は、女性から引く手あまたのプレイボーイでした。
バート・プガシュが30歳の時、OLのリンダ・リス(20歳)に声をかけました。しつこく連絡先を聞いてくるバート・プガシュに、リンダはしぶしぶ住所と電話番号を教えました。バート・プガシュは聞き出した住所に花を送り、リンダが帰った頃をみはからって電話をかけました。そのまま強引にデートに誘うのが彼のやり口でした。あまりの猛攻に戸惑ったリンダは母親に相談しました。
リンダの母は、稼ぎの少なかった夫と離婚すると、女手一つでリンダを育てあげました。自身の苦い経験から、早まって悪い男を選ばないようにと娘を身持ちの堅い女に育てました。そのため、リンダが今まで恋をしたのは一度だけ。相手は旅行先で声をかけてきたラリーという青年でした。彼もリンダに好意を抱いていましたが、兵役のため深い仲にはならず離れ離れになってしまいました。
当時20歳は適齢期、母の勧めもありリンダはバート・プガシュの誘いを受けてみることにしました。会ってみるとバート・プガシュは優しく紳士的、ウィットにとんだ会話で楽しませようとしてくれました。リンダは徐々に彼の人柄に惹かれ、いつしか好きになっていました。そして数か月後にはバート・プガシュに対し結婚を望むようになっていました。
しかし、バート・プガシュは結婚していました。それでもバート・プガシュは妻とはうまくいっていなく離婚するつもりだと言い、リンダもそれを信じました。
その後、バート・プガシュはリンダに離婚届を見せましたが、それは弁護士の立場を利用して偽造したものでした。バート・プガシュには、離婚の手続きをすすめられない理由がありました。
妻は学生時代の恋人。バート・プガシュはそれほど熱を上げていたわけではありませんでしたが、彼女に押し切られる形で結婚しました。しかし、二人の間にできた子供は知的障害を抱えていました。バート・プガシュは仕事があったため、妻が一日中子供の面倒をみなくてはならなくなりました。子供の世話の全てを妻に任せていたことにバート・プガシュは負い目を感じていたのです。そのため離婚は切り出していたものの反対する妻に強くは言えず、離婚届を偽造しリンダを安心させようとしたのです。
ところが、バート・プガシュが離婚していないことがリンダにバレ、リンダはバート・プガシュの元を去っていきました。
ストーカーに
別れてからほどなくして、バート・プガシュはリンダの職場に何度も電話をかけてくるようになりました。やがて、バート・プガシュは毎日のようにリンダの前に現れるようになりました。
バート・プガシュの行動は日を追うごとにエスカレートし、毎晩一時間おきに家に電話をかけてくるように。こうした執拗な行為が続き、その年のクリスマスイブには職場にまで現れました。業務に支障をきたすという理由でリンダは解雇されてしまいました。
リンダが警察に相談するも、当時はストーカーという概念はなく付きまとうだけでは罪になりませんでした。実際に暴力や脅迫がなければ警察は動けなかったのです。
昔の恋人と再会
そんなある日、ラリーが訪ねてきました。再会から数か月と経たないうちに二人は婚約。家族や友人とささやかなパーティーをもよおしました。
リンダはようやく幸せをつかみ取ることができたのです。
悲劇
しかし、婚約パーティーの翌日、郵便配達を装って訪ねてきた男によって顔に劇薬をかけられてしまいました。命に別状はありませんでしたが右目は失明、左目の視力も低下してしまいました。
事件から4か月後の1959年10月、事件に関与した3人の実行犯が逮捕されました。彼らの供述によるとバート・プガシュに金で雇われ、リンダを痛めつけて欲しいと言われたと言います。これをうけ警察はバート・プガシュを逮捕。
しかし、実行犯の供述に対し彼はこう話しました。
リンダが僕に助けを求めて戻ってくるように。ただ怖がらせろと頼んだが劇薬をかけろとは言っていない。実行犯が暴走した。
裁判の結果、劇薬をかけた実行犯には懲役50~60年、バート・プガシュには懲役15~30年の判決が下されました。
リンダが退院すると騒動は一段落しました。しかし、ラリーが婚約を破棄しリンダの元を去っていってしまいました。理由は顔の傷でした。薬品がかかった範囲は限定されていましたが目の部分が焼けただれてしまったのです。
リンダは女性としての幸せも美しさも奪われてしまったのです。一方、バート・プガシュは刑務所からリンダへ手紙を書き続けました。
僕は永遠に君のものです。愛しています。昔からそしてこれからもずっと。
(バート・プガシュの手紙より)
リンダは絶望の淵から這い上がろうとしていました。仕事も見つけ積極的に外出するようになりました。事件から6年が経った1965年8月には男性から告白も受けました。しかし、素顔を見せると男は二度と現れなくなりました。
孤独な日々
このことがトラウマとなり、どんな時もサングラスを外すことができなくなりました。外に出る回数も減り、人と話す機会もほとんどなくなりました。誰かとの接点といえば事件から12年間、ずっと送られてくるバート・プガシュからの手紙だけでした。
それまで読んだことなどありませんでしたが、手紙を読んでみました。そこには一方的な愛の言葉がつづられていました。
この頃、一緒に暮らしていた祖母が他界。さらに、母までもが病に臥せってしまいました。孤独になる生活の中、バート・プガシュからの手紙だけは届き続けました。手紙には離婚した妻に資産を全て持っていかれたことも書かれていました。
自分以上に君を愛する男性はいないと思っている。だから、もう一度だけチャンスが欲しい。
(バート・プガシュの手紙より)
しかし、その後なぜかバート・プガシュからの手紙は途絶えました。
テレビ番組でプロポーズ
それからしばらく経ったある日、バート・プガシュがテレビ番組に出演していました。実は、最高で30年の刑だったバート・プガシュは真面目に刑に服したと判断され14年で仮釈放されていました。
かつて、メディアを賑わせた事件の首謀者だった男ということでテレビ局のスタッフが取材を申し込んだのです。しかし、リンダへの接近禁止命令が課せられていたため仮釈放後は会うことはおろか、手紙や電話なども禁じられていました。そのため、リンダは彼が刑務所を出たことをテレビで初めて知ったのです。
バート・プガシュはテレビでリンダにプロポーズ。信じられない出来事に再び全米が注目しました。
バート・プガシュにはリンダへの接近禁止命令が出ていましたが、警察に事情を話し、当日警官が近くで待機することで14年ぶりに再会する段取りが組まれました。
その日、リンダは自分にしたことをバート・プガシュに知らしめるためサングラスではなくメガネをかけました。事件後の彼女の素顔を初めてみたバート・プガシュはどう思ったのでしょうか?
結婚!?
再会から2か月後、何と二人は結婚しました。顔に傷を負わせ人生を台無しにした相手との結婚という信じられない出来事をメディアはこぞって報道しました。
その後、トーク番組や報道番組に出演したリンダは結婚の理由をこう語っています。
事件から出所してくるまでの長い時間を経て彼はとても素敵になっていたの。生まれ変わったように新しい男になっていた。
彼を受け入れるのは本当に難しいことでした。あのような事件が起きたあとで今でもこの男性を大切に思っていると認めることはとても難しいことです。
いったん彼の元に戻ると決断した後は私は意識的に頭の中で言い続けたの。過去はもう過去だからここからスタートするのよって。
(リンダ)
二人の結婚生活は、その後30年以上続きました。バート・プガシュは、リンダのために弁護士補助員の職を得て懸命に働いたと言います。そして目が不自由なリンダをサポートし続けました。
誰もが理解に苦しみ、今もなおクレイジーラブと呼ばれる愛。しかし、周りが何を言おうと晩年二人が幸せに暮らしたことは事実です。
この奇妙なカップルの結婚生活は、2013年にリンダが心不全で亡くなるまで39年も続きました。
「奇跡体験!アンビリバボー」
クレイジーラブと呼ばれた愛
この記事のコメント
完全にストーカーを助長しとるや無いか‼️ストーカー被害で傷つき、殺された人達やその家族の気持ち考えてんか⁉️ 放送をした奴、アホやろ‼️