福田和子の真実|ザ!世界仰天ニュース

1982年8月19日、愛媛県松山市、福田和子(ふくだかずこ)は同じ店で働いていたナンバー1ホステスを絞殺。そして遺体を部屋にあったタオルケットで包み、ナイロンひもとガムテープで梱包。ほとんど使われることのない非常階段の踊り場に遺体を置きました。

次に部屋中を物色し、現金13万20円と米ドル4ドル1セント、預金通帳2冊と印鑑を盗みました。そして部屋に4時間以上も居座りました。

午後7時、福田和子の夫が仕事から帰ってくるのを見計らい公衆電話から電話。

あんた、私やけど今から車で松山まで来て欲しいんやけど。今晩知り合いの女の子の夜逃げを手伝ってあげたいんよ。もうすぐ刑務所から出てくる男から逃げたいんやって。

この電話から1時間後の午後8時、夫が来ました。ここで福田和子は夫に真実を伝えました。

夫には相手がナイフを持って飛びかかってきたと正当防衛を装い、夫と遺体を車に積み込みました。午後9時、またも夜逃げと嘘をつき親戚にトラックを借りてきてもらいました。

驚くことに福田和子は殺害した女性のほとんどの家財道具、装飾品から衣類まで部屋中のものを運び出したのです。朝方、福田和子は夫と二人で松山市の中心地から20km程離れた山の中に遺体を埋めました。

福田和子は親戚の夫婦を騙し、盗んだ預金通帳から現金74万4000円を引き出させました。盗んだ家財道具は福田和子が愛人と密会するマンションに運び込んでいました。愛人には独身と偽っていました。

事件から4日後の8月23日、出勤してこないホステスの口座から不正に金が引き出されたことで警察が動きました。ほとんどの家具がなくなっていることから、当初は警察も単なる夜逃げと疑いました。

しかし、マンションの大屋が家具をレンタカーに詰め込んでいるのを目撃していました。車のナンバーからレンタカー会社が特定され、8月24日、福田和子の家に電話がかかってきました。咄嗟に警察と思った福田和子は子供のような声を出し、「母はいない」と言いました。午後8時半、親戚のところへ行ってくると夫に言い逃亡を開始。このとき34歳でした。

逃亡開始

福田和子が家を出た2時間後、夫は重要参考人として警察に連行されました。やがて、福田和子が愛人と密会していたマンションにも捜査の手が入りました。マンションの契約者の名前は、高井はつ美(たかいはつみ)これは福田和子が愛人に対して使っていた偽名でした。

警察が愛媛で懸命な捜査をしていた頃、福田和子は北陸随一の繁華街と言われる石川県金沢市片町のスナックにいました。小野寺忍(おのでらしのぶ)という名前でホステスとして働いていたのです。

一方、愛媛では取調べを受けていた夫が犯行を自供。死体遺棄の容疑で緊急逮捕されました。夜逃げと思われた事件は死体遺棄事件に。そして証言通り、無残な遺体が発見され殺人事件へと発展しました。

松山東警察署には捜査本部が設置されました。警察は福田和子を殺人死体遺棄の容疑で全国に指名手配。顔写真も公開され、福田和子の逮捕はそう遠くないものと思われました。しかし、福田和子は東京の病院で目を二重にし、鼻にシリコンを入れ別人になりすましていました。

整形後の福田和子は見違えるように明るくなり、客あしらいが格段にうまくなっていました。そして自分は京都の料亭の娘で、親の決めた相手に無理やり結婚させられ、その男に暴力をふるわれていたと悲劇の女を演じていました。嘘の身の上話を語ることは福田和子にとって容易いことでした。

逃亡39日目、福田和子は松山の愛人に電話をかけるため京都へ。警察への協力を約束していた愛人の電話には録音機が設置されていました。

「はつ美です。もう忘れたでしょうが私のことは」(福田和子)
「そうや。福田和子なんて知らんけどそんな女」(愛人)
「高井はつ美だけ?もう切るよ本当」(福田和子)
「なんで」(愛人)
「危ない危ない」(福田和子)
「何が危ない」(愛人)
「逆探知されたら困る」(福田和子)

この録音テープから、警察はコインの落ちる音の間隔に注目しました。10円で話せる通話時間は距離で決まります。その後も福田和子は何度か関西地域から知り合いに電話をしていました。

これらの電話は全て福田和子の計算でした。捜査をかく乱するため、わざわざ関西地域からかけていたのです。警察は関西の主要都市の人ごみに福田和子が紛れ込んでいるとよみ、金沢まで捜査は及びませんでした。

逃亡8ヶ月目、福田和子は印刷機メーカーに勤務する男性と同棲を始めました。この男性には店と同じ小野寺忍と名乗っていました。

半年近く経った頃、スナックで和菓子店の若旦那と知り合いました。若旦那は福田和子には魅力的でした。そして同棲していた男性の家から家財道具ごと姿を消し、若旦那と同棲を始めました。若旦那には小野寺華世(おのでらかよ)と名乗り、京都の老舗料理店の娘と偽りました。

同棲して9ヶ月経った1985年6月、福田和子は若旦那の内縁の妻となりました。若旦那は福田和子のために離婚したのです。明るい奥さんが来たと家族にも評判でした。ただ、先妻との子供とは馴染めませんでした。その姿を見るたび思い出すのは自分の息子のこと。いてもたってもいられなくなった福田和子は息子に会いに愛媛まで行きました。息子に電話をかけ今治駅で待ち合わせたのです。

そして息子を甥っ子と偽って和菓子店での住み込みを願い出ました。息子は和菓子店で見習いとして働き、4年ぶりに一緒に暮らすことになりました。福田和子は籍を入れることについて、その場しのぎで何度も断り続けていました。しかし、身内たちが疑いを持ち始めました。

逃亡から5年目の冬、組合の温泉旅行で若旦那は福田和子の指名手配ポスターを見てしまいました。そして福田和子じゃないのかと聞きました。福田和子笑ってごまかしましたが、次第にごまかしもきかなくなっていきました。

若旦那の姉が、甥っ子という少年の荷物を調べると運転免許証を発見。そこには愛媛県松山市と書かれていました。すぐに警察に通報。免許証番号から福田和子の息子であることが分かりました。そして1988年2月12日、ついに警察は福田和子逮捕へと向かいました。

この日、福田和子は公民館で通夜の準備をしていました。福田和子は自転車を盗み間一髪のところで逃亡。着の身着のままでひたすら自転車を走らせると、息子を置いたまま5年半潜伏した石川県を離れました。

石川県の捜査で整形していた事実が判明。忘れかけていた福田和子の名は、再び全国へと流れ「7つの顔を持つ女」と呼ばれるように。これを機に指名手配写真も整形後の写真へと変わりました。

金沢から逃亡した福田和子は、今度は倉本かおる(くらもとかおる)という名で、名古屋のラブホテルの清掃員として働いていました。人目につきにくいこの仕事は好都合のはずでした。しかし、石川県での一件以来、福田和子のニュースは頻繁に流れました。一つの場所に長くとどまることは止め、従業員から不審に思われるのと同時に姿を消しました。

警察は名古屋からはすでに離れていると考え、県境を中心に捜査しました。しかし、それも福田和子の作戦でした。福田和子は警察の盲点をつき名古屋駅近くのモーテルで働いていたのです。

1988年8月、死体遺棄罪の時効はすでに成立していたため、立件できる容疑は殺人のみとなっていました。この事件の時効は当時は15年でした。

その後の福田和子は名前を変え、職を変え、3ヶ月以上同じ場所にとどまらず逃亡は全国にまたがりました。1988年から1996年までの8年間で北海道から山口まで15か所以上を転々としていたと言います。1990年には2度目を整形手術をしました。警察も情報が入れば全国を飛び回りましたが、福田和子発見までには至りませんでした。

1996年7月、時効まで1年となり、福田和子は福井にいました。化粧品のセールスレディを装い中村ゆき子(なかむらゆきこ)と名乗っていました。その頃、愛媛県警は時効まで1年となったことで100万円の懸賞金をかけました。これをうけマスコミもこぞって福田和子を取り上げました。

半年後、福田和子はある一軒の店に頻繁に通うようになりました。店では中村れい子と名乗っていました。しかし、ある日店の女将が福田和子のことが報道されている番組を見て、店によく来るれい子と声や喋り方が似ていることに気づきました。女将と常連客は警察に通報。警察からは指紋を採取するように言われました。しかし、時効まで1ヶ月を切ると福田和子はパタリと店に来なくなりました。

ところが1997年7月28日、福田和子が店に来ました。女将と常連客は指紋採取のため福田和子にビール瓶とコップに触らせ怪しまれないようにそれらを保管し警察へと届けました。そして翌日、再び福田和子が現れました。

警察が店を包囲する中、午後4時前になると福田和子は「一旦帰ってまた来るわ」と席を立ちました。

こうして14年と344日の逃亡劇は幕を下ろしました。時効成立の21日前のことでした。午後6時40分、福田和子は殺人の容疑で逮捕され、翌日松山へと移送されました。2003年11月、無期懲役が確定。

その後、2005年3月、収監された刑務所内でくも膜下出血で倒れ息を引き取りました。57歳でした。

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