即身仏 ~ミイラ仏の不思議な世界~|歴史秘話ヒストリア

即身仏(そくしんぶつ)とは僧侶が苦行の末、自らミイラ化するという日本独自の仏様です。人々の暮らしに身近な存在として、山形県を中心に古くから信仰を集めています。

 

謎の仏 即身仏を訪ねて

そもそも即身仏はどのような経緯で生まれたのでしょうか?

 

始まりは、空海がひらいた高野山です。高野山で最も聖なる場所とされる奥之院。その立ち入りが禁じられている御堂の中で、空海は今も生き続け人々を救っているとされています。

 

空海のように永遠に生きて人々を救い続けるにはどうすればいいのか?そこで誕生したのが即身仏だと考えられています。即身仏は平安時代以降、全国に広まりました。

 

現在、山形から京都まで17体が伝わっています。中でも多いのが湯殿山の周辺。10体が安置されています。

 

木食行

即身仏を目指すには、木食行(もくじきぎょう)と呼ばれる修行を行う必要がありました。米や麦などの穀物を食べず、山にわけいりそこで採れる木の実や草だけを食べる修行です。そうすることで、神仏に近づけるよう体を清らかにします。

 

これを数年続けると、脂肪が落ちてミイラ化しやすい体になるのだと言います。木食行を行った修行僧は、特別な力を身につけたと信じられ崇められました。

 

土中入定

特別な力を人々のために役立てた修行僧は、やがて即身仏になる最後の荒行にのぞみます。土中入定(どちゅうにゅうじょう)です。

 

地下に入った修行僧は、竹で息継ぎをしながら鐘をたたき祈り続けます。鐘の音がやむと、人々はその上に塚を作り、3年経った後に穴から出し安置したのが即身仏です。

 

厳しい修行により自らミイラとなり、永遠に人々を救い続ける身近な仏様が即身仏なのです。

 

仏の道に救われた男

即身仏・鉄門海上人は宝暦9年(1759年)山形県鶴岡市で生まれました。

 

仕事は川人足。石垣などに用いる川石をとったり、木材を運んだりして暮らしていました。鉄は、仕事熱心で威勢のいい若者でした。ところが、人生を一変させる出来事が起こりました。

 

ある夏、激しい雨が降り続き川が氾濫しそうになりました。このままでは家や田畑が流されてしまうと鉄は大急ぎで川人足を監督する武士のもとへ。しかし、武士たちの態度に腹を立てた鉄は、武士たちを殺してしまいました。

 

お尋ね者となった鉄は、村を逃げ出し、辿り着いたのは湯殿山の注連寺でした。鉄はここで修行僧・鉄門海として暮らし始めました。立場は寺の雑用をする行人。修行僧の中で最も低い身分でした。

 

鉄門海の目にとまったのは、一心に仏に救いを求める人々の姿でした。その頃、東北地方は度々大飢饉に襲われていました。日々の暮らしに不安を抱いた人々が湯殿山に押し寄せていたのです。

 

この人たちを救うことができれば、自分の罪も少しは償えるかもしれないと鉄門海は湯殿山に1000日籠もる荒行を始めました。

 

修行の拠点は、標高1000mを超える山の中。雨の日も雪の日も1日も休まずに谷川を渡り崖をよじ登って滝にうたれ、湯殿山の神仏に祈りを捧げました。山籠もりは神仏に誓いをたてて始めるので、例え病気になろうと途中でやめることは出来ません。

 

鉄門海は、当時30代前半で気力も体力も十分ありましたが、それでも厳しい修行に心折れそうになる時もありました。そんな鉄門海を支えてくれたのは村人たちでした。

 

1000日の山籠もりを終えた鉄門海は、小さな寺の住職になりました。この頃の鉄門海に救われた集落が山五十川(やまいらがわ)です。

 

記録によると村は2度疫病にみまわれ、子供や老人が20人以上亡くなったと言います。村を訪れた鉄門海は、疫病を追い払うための祈祷を行いました。梵天という道具で病人をなで、災いを取り除いたと記されています。

 

オレは即身仏になる!

50代半ばを過ぎた鉄門海は、しばしば即身仏・本明海上人に手を合わせたと言います。本明海上は、湯殿山で即身仏を目指した修行僧のさきがけです。熱心な信者たちによって大切にされ人々をずっと見守り続けてきました。

 

鉄門海は還暦を前に再び1000日の山籠もりを行いました。あとは最後の修行、生きたまま土の中に入る土中入定を行うのみでした。

 

しかし、鉄門海が71歳の時、長年の無理がたたったのか病の床につき亡くなりました。土中入定して即身仏になるという願いは叶えられませんでした。

 

しかし、人々は鉄門海の遺志を継ぎ、鉄門海を注連寺の石の部屋におさめました。3年後、鉄門海の願い通り即身仏として大切に安置されることになったのです。

 

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~ミイラ仏の不思議な世界~

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