南米ブラジルのアマゾン川流域の密林に、ピダハンと呼ばれる400人ほどの人々が暮らしています。ピダハンの生活は、何世紀もの間ほとんど変わっていません。今、彼らの使う言葉とコミュニケーションの方法に世界が注目しています。
ピダハン語は、しゃべってもハミングしても歌っても口笛を吹いても伝わります。ピダハンはアマゾン川の支流に広がる4つの村で生活しています。300年前、金を求めてやってきたポルトガル人と出会っただけで、後は長い間外からの影響を拒んできました。ピダハンはピダハン語しか話しません。
しかし、1950年代に麻疹が流行し、ピダハンはアメリカの伝道師を迎え入れることにしました。そうしてやってきた伝道師の一人がダニエル・エヴェレットでした。ダニエルは1977年、25歳の時に妻と幼い子供たちを連れてピダハンの元を訪れました。
ピダハンは今は服を着るようになっていますが、定住するための家や耕作地はなく自然に頼って暮らしています。ピダハン語が話せる外国人は3人しかいません。それはダニエルと、彼の別れた妻、そして前任の伝道師です。
ダニエルは家族と共に30年に渡って断続的にピダハンと共に暮らしました。しかし、妻と子供は死にかけ、ダニエル自身も何度もマラリアにかかったと言います。また、ピダハンに皆殺しにされそうになったことも3回あります。
ピダハンとダニエルたちの関係は時と共に変化し、今では両者はすっかり打ち解けています。こうした関係が築けたのはダニエルがピダハンの言葉を習得することが出来たからでした。
ピダハン語
ピダハン語を習得するにつれダニエルはある事に気づきました。ピダハン語には色を表す単語がなく、過去や未来のじせいもほとんど見られないのです。そして数字もありません。ピダハン語は数字を表す言葉を持たない唯一の言語である可能性があります。
そして、ピダハンの人々と狩りに出ることでダニエルは別の発見もしました。ピダハンは周囲の自然について並外れた知識を持っていることです。周囲に生息する何千種もの動植物について、それが何でどのように暮らし、どこで見つかるかまで知っています。
ピダハンの人々はひたすら現在に生きているのです。彼らは未来や過去のためよりも、そのとき必要なことをします。そのため食べ物があるだろうか?と心配したりしないのです。川には魚がいると知っているからです。
将来への不安と過去の後悔、この2つから開放された時、多くの人は幸福を感じることが出来ます。現在に生きるピダハンの人々は、すでにその幸福を手に入れているのかもしれません。
信仰を捨てる決断
ピダハンの人たちの満ち足りた様子はダニエルに大きな影響を与えました。そして、彼は自らの信仰に疑問を抱き始めたのです。すでに幸せなピダハンの人たちに神のメッセージを伝えるなど無意味なことでだったからです。
ダニエルは25年に渡って布教活動をしましたが、たった1人のピダハンもキリスト教に導くことは出来ませんでした。
そしてついに、ダニエルは信仰を捨てる決断をしました。この劇的な変化はダニエルの家族を崩壊させました。そしてダニエルは伝道生活を捨て言語学者としての仕事に没頭し始めました。
言語学者へ
彼は長いことピダハン語の文法には他の言語とは根本的に違う何かがあるのではないかと思っていたのです。彼の直感が正しければ、言語に対するこれまでの常識が覆るかもしれません。
しかしそれは、現代言語学の権威に闘いを挑むことでもありました。論文を発表すると嫌がらせの手紙が何通も届いたといいます。
ピダハン語にはリカージョンがない!?
最大の論争を巻き起こしたのはピダハン語に全ての言語にあるとされる文法上の法則がないとする主張でした。その法則とはリカージョン。文章を際限なく伸ばしていく法則のことです。
例えば「ビルがメアリーに会った」という文を伸ばすと「ビルがメアリーに会ったとジョンが言った」文はさらに伸ばすことが出来ます。例えば「アービングが家を買ったとピーターが言ったとメアリーが言ったとジョンが言った」というように、1つの文章を永遠に伸ばしていく文法がリカージョンです。
もし文章を伸ばすことが出来ないとしたら、その言語にはリカージョンがないということです。ピダハン語にはリカージョンがないのだと言います。
普遍文法
しかし、ノーム・チョムスキーは「リカージョンはあらゆる言語に存在する」としています。これはチョムスキーが唱え言語学界の定説となっている理論「普遍文法」の最も重要なルールなのです。
チョムスキーが唱える普遍文法とは、文法は生まれつき人間の遺伝子の中にそなわっているとする理論です。この理論によると人間の言語は表面的な違いに関わらず、全て同じ構造を持っていると言います。
普遍文法は言語学界で50年以上に渡って支持されてきました。もし、ダニエルが言うようにピダハン語にリカージョンがないとすれば普遍文法の理論が間違っているということになります。
調査
2011年7月、ダニエル・エヴェレットの主張を検証するため新たな調査隊が遠征の準備を進めていました。調査隊を率いるのはマサチューセッツ工科大学のテッド・ギブソン教授です。
ギブソン教授のチームは人間の言語を分析するための新しいコンピュータプログラムを開発。ダニエルの説を検証するためのプログラムです。ダニエルは通訳として調査隊に同行することになりました。しかし、ピダハンのもとに行く許可がおりず行くことが出来ませんでした。
遠征調査を中止された研究者たちはダニエルの説を検証するために、別の方法を考えだしました。ダニエルと彼の前任の伝道師が録音したピダハン語を調べるのです。
研究者たちは、まずピダハン語のデータベースを作り、データベースが完成したら理論的に考えられるピダハン語の文を全て書き出し、これらを録音と照らし出し実際に使われているものを探し出しました。この時、リカージョンが見あたらなければダニエルの説を裏付ける証拠となるかもしれません。
ピダハンの村の変化
録音を検証している間に撮影班がピダハンの村を訪れました。撮影班は多くの録音を集めるよう頼まれていましたが、2年前の訪問からピダハンの村は様変わりしていました。ブラジル政府が診療所やトイレ、定住するための家を建てていたのです。
最大の変化は学校の存在です。ピダハンの子供たちはポルトガル語や数の数え方を学んでいたのです。こうした変化は外部の人にジレンマを引き起こします。
科学技術はピダハンの人々を力付ける一方、彼ら特有の文化を失わせる可能性があるからです。ピダハンの人々は、これまで明るく活発に暮らしてきました。伝道師がキリスト教に入信させようとしても、政府が従わせようとしても彼らは拒否してきました。しかし今回、彼らはかつてない課題に直面しています。
撮影班は最後に、ダニエルによるメッセージをピダハンの人たちに伝えましたが、彼らがダニエルを見るのはこれが最後かもしれません。
調査結果
3ヵ月後、調査チームのコンピューターがピダハン語のデータベースの解析を終えました。録音された約1000個の文を解析すると、ダニエルが立てた仮説通りの結果が出ました。リカージョンの存在を示す明らかな証拠がデータベースの解析では見つからなかったのです。
リカージョンが成り立つためには、いくつかの共通する法則がありますが、それがピダハン語にはありません。
例えば接続詞。「何々と何々」というような表現がないのです。「ジョンとビルとメアリーとフレッド」などの言い方がピダハン語にはありません。「ジョンまたはメアリー」という言い方もありません。ピダハン語は他の言語とは異なり、複雑な構造がないのです。
しかし、この結果も論争の解決にはなりませんでした。ノーム・チョムスキーは文法の検証の仕方に問題があると言います。また、全ての言語がリカージョンに基づいていることは疑いようのない事実だと主張しています。
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