デヴィ夫人と娘カリナの25年の確執|嵐を呼ぶ!あぶない熟女

東京都港区で学生時代を過ごしたデヴィ夫人こと根本七保子さんは、活発な性格と美貌で学級委員をつとめるなど学校でも目立つ存在でした。

1959年、インドネシアのスカルノ大統領が来日。帝国ホテルのお茶会で出会ったことが運命の始まりでした。スカルノ大統領が帰国後も文通で連絡を取り合い、2人は愛を深めていきました。そして3年の交際を経て結婚。39歳の年の差婚でした。

この時スカルノ大統領から「宝石の女神」を意味するラトナ・サリ・デヴィという名前を送られた七保子さん。デヴィ・スカルノが誕生しました。

1965年、陸軍によるクーデターでスカルノ大統領は徐々に失脚へ。大統領としての権限を全て剥奪されることになりました。

そんな激動の中、デヴィ夫人は新しい命を授かりました。東京の慶応病院で長女カリナを出産。結婚5年目にして念願の子宝に恵まれました。

幼いカリナと共にスカルノが待つインドネシアに向かうも、現地でのクーデターは収まらず入国は叶いませんでした。生後6ヶ月の娘を抱え、行き場を失ったデヴィ夫人はパリへ亡命。しかし、3年後にスカルノ元大統領が亡くなりました。デヴィ夫人は30歳の若さで未亡人となったのです。

娘を育てる環境にふさわしいとデヴィ夫人が選んだのはパリ。乗馬をはじめ上流階級に必要な作法やたしなみを娘に施しました。カリナには男親が必要と感じたデヴィ夫人は、娘のため数人の男性と生活を共にするも結婚には至りませんでした。

カリナが11歳の時、2人はインドネシアを訪問。この時、デヴィ夫人にはクーデターで新政府に奪われた宮殿や別荘を取り返したいという思いがありました。財産を取り戻すためデヴィ夫人は単身インドネシアで暮らすことを決断。娘には危険がおよばないようにとカリナはパリに残す事にしました。しかし、この行動が2人の間に大きな亀裂を生みました。

母の愛を受ける事なく10代をパリで過ごしたカリナ。その後、単身渡米しボストンの大学へ進学しました。

一方、デヴィ夫人はインドネシア政府から財産を取り戻し、娘との失った時間を埋めようとしました。ニューヨークに親子で住むための新居を購入。カリナの大学卒業と同時に同居生活を始めるはずでした。

しかし、カリナが突然失踪。彼女は母と住むことを拒絶したのです。

最愛の娘との大きな確執は日を追うごとにエスカレートしていきました。カリナの結婚式でもデヴィ夫人は母親としてではなく一人のゲストとして呼ばれました。

25年にわたる親子の確執ですが、近年ある出来事がきっかけで2人の距離は縮まりつつあります。それは初孫キラン君の存在。キラン君を介し徐々に連絡をとるようになり、最近は手紙の交換も増えていると言います。

私も母になり今ではお母さんの気持ちがわかる。お父さんも急に亡くなり1人で私を育てた事は本当に大変だったと思う。今まではコミュニケーションをあまりとれてなかったけど、これからは2人でショッピングしたり昔出来なかった事をしたいです。(カリナさん)

最愛の孫の存在が親子の失った時間を少しずつ取り戻してくれています。

「嵐を呼ぶ!あぶない熟女」
熟女の親子トラブル

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