ガーナ共和国で村の長老になり貧しい村を救った日本人|ありえへん世界

武辺寛則(たけべひろのり)さんは、ガーナの人々を貧困から救うために人生を捧げ、村の長老となり27歳という若さでこの世を去りました。

武辺寛則さんは1961年、長崎県佐世保市で生まれました。10歳の時ある新聞記事が目にとまりました。それは「アフリカに行っている日本人がいる」というもの。そして、アフリカの貧しい人たちを助けたいと思うようになりました。しかし、進学していく中で彼がアフリカへの想いを口にすることはありませんでした。

大学卒業後、福岡の商社へ就職。ビジネスマンとして順風満帆な生活を送っていました。ところが、商社に入社して2年、会社を辞めました。それは幼い頃からの夢を叶えるためでした。こうして1986年、25歳の時にボランティア団体を通じてガーナへ。

当時のガーナは主要産業であるカカオの市場価格の急落により大不況。アフリカの中でも最も貧しい国の一つでした。しかも、武辺寛則さんが言ったアチュア村は電気や水道が通っていないガーナの中でも特に貧しい村の1つだったのです。

農業改革

彼がまず行ったのは、村の生活を良くするべく農業の改革でした。アチュア村が当時行っていた焼き畑農業は、草木を焼いた灰が肥料になり土壌を改善しますが、数年で地力が落ち収穫量が減少してしまうのです。しかし、焼き畑農業をやめろという提案は村人たちに受け入れられませんでした。

それでも、武辺寛則さんは村の発展を第一に考え、何度も村人たちと話し合いを重ねました。彼の真摯な姿勢に村人たちも心を動かされ、いつしか信頼関係が生まれていきました。

ところが、1987年6月に大干ばつが起こりました。雨季になっても雨が全く降らず日照りが続いたのです。タピオカの原料であるキャッサバやコーンなどの主要作物がほとんど枯れてしまいました。貴重な食料源を失い村の生活はさらに苦しい状態に。安定した生活を求め、多くの家族が村を去ってしまいました。

しかし、武辺寛則さんはこの困難にも立ち向かいました。そして村の希望の光となるパイナップルを発見しました。

パイナップル栽培

ファンティパイナップルは干ばつにも負けない暑さへの耐性があります。それまで村でパイナップルを作っていたのは5~6人だけ。しかも農業技術が未熟だったため、自分たちが食べるためだけに作っていました。そんな状況を知り、武辺寛則さんはパイナップルを村の基幹農業にすることを提案。彼が働きかけたところ、村の3分の1にあたる65人もの村人がパイナップルを作りたいと集まってくれました。

ところが、パイナップルの栽培を始めるとすぐに問題が発生。作業をサボる村人たちが少なくなかったのです。それまで楽な焼き畑農業しかしてこなかった村人たちにとってパイナップルの栽培はとても手間のかかるものだったからです。彼はサボる村人を目にしても文句一つもらさず誰よりも率先して懸命に働きました。

そんな中、武辺寛則さんはマラリアにかかってしまいました。マラリアは蚊が媒介し40℃を超える高熱に襲われ、最悪の場合は死に至る危険性もある伝染病。過酷な肉体労働で体が弱っていた彼は1年間に3度もマラリアにかかってしまったのです。

マラリアから生還すると、すぐに懸命に畑を耕しました。そんな彼の姿を見て、村人たちにも変化があらわれました。

ところが、パイナップルを作り始めて半年が経った頃、資金不足に陥りました。実はパイナップルは植えてから収穫できるようになるまで2年もかかってしまうのです。皮肉にも焼き畑を続けていれば得られたはずの収入が得られず、村人たちの蓄えが底をついてしまったのです。

この大ピンチに武辺寛則さんはガーナの日本大使館へ資金援助の要請に行きました。しかし、良い返事がもらえず、他の国の大使館へお願いしに行きました。なんとか援助を取り付けることができ、パイナップル栽培を続けることが出来ました。そして1988年9月24日、アチュア村で長老という名誉を与えられました。

ところが、武辺寛則さんは急病人の村人を車で搬送している時に事故を起こし亡くなりました。27歳の若さでした。遠い異国の貧しい村に人生を捧げた一人の名もなき日本人は、志半ばで短い人生に幕を閉じたのです。

しかし、アチュア村の人々は武辺寛則さんの遺志を継ぎ、懸命にパイナップル栽培を続けました。

あれから25年、武辺寛則さんが作ったパイナップル農園は、村人たちの手でしっかりと守られています。今や年間5000トンの生産量を生み出すまでに。そのパイナップルがもたらす収益のおかげで、村の生活も向上。村には電気も水道も完備されています。

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ガーナ共和国で村の長老になり貧しい村を救った日本人

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