沖ノ島 日本はじまりの物語|歴史秘話ヒストリア

大海原に浮かぶ沖ノ島(おきのしま)は2017年7月、世界遺産に登録されました。絶海の孤島は古くからの掟で立ち入りが厳しく制限されています。常駐しているのは福岡・宗像大社の神職一人。毎朝、全裸で海に入り禊を行います。

海岸近くにある鳥居の先は神の領域。原生林が広がります。古、この森で神への祈りが行われました。それは日本の夜明けと共に始まった祈りでした。

福岡 宗像大社へ

宗像大社(むなかたたいしゃ)の参拝者は年間30万。九州を代表する神社です。古くからの天皇家との深い繋がりで知られています。「日本書紀」には天皇の祖先とされる天照大御神が宗像三女神を生んだとあります。女神たちはそれぞれ宗像にある辺津宮、中津宮、沖津宮に祀られています。この3つの社の総称、宗像大社と周囲の古墳などが世界遺産に登録されました。

その中で全ての根源とされるのが沖ノ島です。周囲4キロの小さな島は、なぜ人々の信仰を集める神宿る島となったのでしょうか。

神宿る島の誕生と古代政権

沖ノ島の本質、それは原生林の中で知ることができます。沖ノ島で行われてきた祭祀。所々に顔をのぞかせる土器の欠片は1000年以上も前に神に捧げられたものです。

島から一木一草一石たりとも持ち出してはならない

そんな厳しい掟が沖ノ島を太古のままの姿にとどめてきました。

1954年、沖ノ島に初めて学術調査が入りました。12回におよぶ調査で沖ノ島がいかに重要な島か初めて明らかになりました。

調査を始めると林立する巨岩の周りから次々と宝物が姿を現しました。黄金の指輪、織機のミニチュア、竜の頭をかたどった飾り物。調査で分かったのは、沖ノ島で500年もの間続けられた大がかりな祭祀の姿でした。

始まりは4世紀の古墳時代。岩に神が降臨するとされ、岩の上に宝物が捧げられました。鏡や勾玉など古墳から出土する品が出土しました。続いては7世紀の飛鳥時代にかけて。岩陰からペルシャガラスなど海外の品が見つかりました。そして、9世紀の平安時代にかけて、祭祀は岩を離れて平地で行われました。奈良三彩と呼ばれる陶器など国産の品が大量に見つかりました。

岩に神が宿るとする自然崇拝から、神社の原型ともいえる平地での祈りまで。沖ノ島はこの国の祭祀の変遷が確認できるただ一つの場所だったのです。一体誰が祭祀を行ったのでしょうか?

1957年に始まった第2回調査で大きなヒントとなるものが発見されました。岩と岩の隙間から鏡が大量に見つかりました。中でも神の姿や聖なる動物が刻まれた三角縁神獣鏡は研究者の関心を引きました。

三角縁神獣鏡はヤマト政権が手に入れて保管されていた鏡であることはほぼ間違いない。これはヤマト政権が沖ノ島の祭祀を行ったと。 (大阪府立近つ飛鳥博物館 館長 白石太一郎さん)

祭祀を行ったのは現在の近畿地方を基盤とするヤマト政権。しかし、なぜ遠い絶海の孤島で500年もの間、国家的な祭祀を行ったのでしょうか?

沖ノ島の位置は瀬戸内から朝鮮半島に至る最短距離に接してある。沖ノ島の神に海上交通の安全を祈るという心理はよく分かる。 (大阪府立近つ飛鳥博物館 館長 白石太一郎さん)

海の交易を4世紀、ヤマト政権は重視。大陸文化を導入し大きな力を手に入れました。交易を確かなものとするため、各地で安全を祈る祭祀が行われました。

鉄とヤマト政権

沖ノ島の祭祀が始まった古墳時代。近畿地方を基盤とするヤマト政権は「倭」と呼ばれ、大きな力を持っていました。その大王の墓から出土するのが鉄の甲冑、鉄の剣。それまでの青銅にかわり、はるかに強い鉄の品が。そんな鉄が沖ノ島で神に捧げられていました。

古代アイアンロード

倭を出発した船は現在の釜山の近くに到着したと言われます。当時、半島南部の加耶は倭が頻繁に交易した相手でした。加耶を代表する大成洞古墳から鉄の板が大量に出土しました。当時、朝鮮半島から大量の鉄が海を越えてもたらされました。

4世紀、朝鮮半島は緊張状態にありました。高句麗が南に侵攻。国々は存亡の瀬戸際に立たされました。半島東部の新羅が影響下に入る一方、百済は倭と結び高句麗に対抗しました。百済は倭との鉄の交易をすすめ、同盟国・倭の軍事力を強化しようとしました。ヤマト政権はそれを貪欲に吸収。権力基盤を固めていったのです。

女人禁制と大島

大島は宗像三女伸のうち湍津姫(たぎつひめ)を祀る中津宮があります。沖ノ島は女人禁制。大島の女性たちはことあるごとに沖津宮遥拝所に足を運びました。

海の民 はるかなる物語

宗像は古代、宗像氏という海の民の本拠地でした。大陸との交易のおかげで弥生時代から宗像は日本で最も進んだ地域の一つでした。それを支えたのが宗像氏の高度な航海術です。ヤマト政権の海の交易をになった宗像氏。同時に祭祀もつかさどることになりました。

ところが、6世紀に宗像氏はヤマト政権と九州の豪族たちとの間で決断を迫られることになりました。外国との交易で富をたくわえた九州の豪族たち。中でも福岡の八女を本拠地とした磐井氏の力は他を圧倒していました。

6世紀の初め、ヤマト政権が磐井氏の地に攻め入りました。古代最大の内乱とも言われる磐井の乱です。攻撃の理由は磐井氏が新羅と通じ、反逆を企てたというものでした。当時、ヤマト政権は百済との同盟のもと貿易を独占しようとしていました。磐井氏と新羅との繋がりを見過ごすことはできなかったと考えられます。戦で磐井氏は破れました。

一方、宗像氏は生き残りました。ヤマト政権につくことを選んだと考えられます。その後も宗像氏は沖ノ島の祭祀を担い続けました。

平安時代、沖ノ島の国家的な祭祀は終わりました。しかし、島への思いは今も続いています。国家的な祭祀が終わった後も海の民と沖ノ島の関係は続いてきました。

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