チンギス・ハーンの墓の謎|たけしの新・世界七不思議大百科

秦の始皇帝の兵馬俑、ナポレオンのアンヴァリッド、エジプトのファラオのピラミッド、歴史に名を残す英雄たちはみなその強大な権力を誇示するように煌びやかなモニュメントを残しています。ところが、史上最も巨大な帝国を築いた英雄チンギス・ハーンの墓はなぜか見つかっていません。

チンギス・ハン

チンギス・ハーンは13世紀初頭、圧倒的な軍事力で東は中国、西はヨーロッパまでユーラシアの7割を支配するモンゴル帝国を築いた人物です。チンギス・ハーンの墓はどこにあるのでしょうか?

チンギス・ハーンは1162年、遊牧民の小さな部族のリーダーの子として生まれました。幼名はテムジン。9歳の時、対立していた部族の計略によって父を毒殺されると、不遇の幼少期を過ごしました。しかし、青年に成長するやいなや神がかった統率力で組織的な軍隊を整備。民族ごとに争っていたモンゴル高原を統一しました。

45歳で全遊牧民を束ねるモンゴル帝国の初代皇帝となり、仲間から「海のように広い心を持った王」という名前をおくられ、英雄チンギス・ハーンが誕生しました。その後、20年で東は中国北部、西は中東までと領地を広げるとモンゴル帝国は史上最も広大な領土を持つ国へと成長しました。

チンギス・ハーンの霊廟

2001年、アウラガで大発見がありました。800年前の焼き物の欠片や鉄製の道具などが数多く出土。また、衛星写真などを使って調査を進めてみると、それは東西に1200メートル、南北500メートルにわたる巨大な遺構であることが判明しました。

さらに、調査チームはアウラガ遺跡の中央部に二重掘りに囲まれた建物跡を発見。これこそチンギス・ハーンの霊廟に違いないというのです。そこから馬の骨がでてきたからです。

チンギス・ハーンの霊廟では葬送官たちが3年間毎日霊をまつり、そこには馬を用いた。

(「元史」より)

馬の骨つき肉は皇帝に捧げていた貴重な供物。この馬の骨が出土したことでチンギス・ハーンの霊廟だと断定することができたのです。ただし、霊廟はあくまで霊を祀る場所でお墓ではないと言います。では、お墓はどこにあるのでしょうか?

墓はどこに?

ペルシャの歴史家ラシード・アッディーンが13世紀に記した「集史」によると、若かりし頃チンギス・ハーンは草原にポツンと生えている1本の木を見つけました。そして、その木がある場所をたいそう気に入ったと言います。チンギス・ハーンは周囲の者に自分が死んだらその木の下に埋葬するように伝えていました。

チンギス・ハーンは支配した土地の文化を受け入れ、それぞれの宗教に信仰の自由を認めていました。宗教や人種による差別をなくすことで草原から世界を支配したチンギス・ハーン。しかし、世界各国の歴史書の中には支配者としての恐ろしい姿も残されています。

「襲われた町のある者は殺され、残りは生きたまま焼かれた。」

「奴隷達はあまりの寒さに手足が凍りつきやがて動かなくなり凍死した。」

実はチンギス・ハーンは残虐になる時にはきっかけがありました。それは刃向かった時。兵力の少ないモンゴル帝国は、征服した土地にダルガチと呼ばれる地方統治官と60人のモンゴル兵だけを置きました。そして、自分たちは政治には口出しをせず元々暮らしていた住民たちによる自治を認めていました。しかし、これでは住民に反乱されたらひとたまりもありません。

そこでチンギス・ハーンがとった策は、ダルガチを殺害されたさいは老若男女問わず町の者を皆殺しにするという大量報復戦略だったのです。チンギス・ハーンは、大量報復戦略と信仰の自由というアメとムチを使い、世界帝国を築き上げていったのです。

チンギス・ハーンの人生の幕が閉じたのは1227年。戦いの最中、落馬したことが原因と言われています。しかし、当時それを知る者はほとんどいませんでした。なぜなら、その死は敵対国に知られないよう徹底的に伏せられていたからです。

伝説ではチンギス・ハーンの遺体は遠征先からモンゴルへと運ばれました。その道中、棺を目撃した者はみな口封じのため殺されたと言います。そして、遺体は誰にも見つからないように約束の地へと運ばれ埋葬されたのち800頭もの馬で土を踏み固め、その場所を徹底的に隠したと言います。

モンゴル国立歴史科学アカデミーのポンツァグ教授は、埋葬されたのはブルハン・ハルドゥンだと主張しています。ブルハン・ハルドゥンはモンゴル発祥の地とも言われる聖なる山です。チンギス・ハーンはこの山の麓で幼少期を過ごしています。

当時、モンゴルでは生まれ変わるために故郷に埋葬するという風習がありました。しかし、神聖な山であるブルハン・ハルドゥンの半径10キロ圏内は採掘が禁止されています。そのため研究チームは地中レーダー探査機を使い調査。すると、地中に人工物の痕跡を発見したのです。

研究チームはチンギス・ハーンが埋葬されたと思われる場所を調査。すると、長方形の壁に覆われた建造物の地下に小さな遺構があることが分かったのです。それは棺のような形をしていました。さらに、決定的だったのが現場の地表面で採取した瓦の破片。年代測定をしてみると1219~1275年でした。それは、チンギス・ハーンとその子供たちの時代のものだったのです。

しかし、聖なる山ブルハン・ハルドゥンでの調査はモンゴル政府からまだ許されていません。

「たけしの新・世界七不思議大百科 第5巻」

この記事のコメント