知られざる衝撃波 ~長崎原爆マッハステムの脅威~ |NHKスペシャル

1945年8月9日、午前11時2分、長崎の上空で爆発した原子爆弾。放射線と熱線、そして猛烈な爆風が人々に襲いかかりました。その年だけで7万人が亡くなりました。

原爆投下後の長崎

長崎市立城山小学校では登校してきた子供たちが毎朝お辞儀をしてから校舎に入ります。それは、原爆で大きな被害を受けたこの小学校で長い間続いてきた光景です。正門の脇には被爆した校舎の一部が残されています。旧城山国民学校です。戦後、修復されましたが建物の中には被爆当時の痕跡が残されています。

被爆する前の城山国民学校には南と北の2つの校舎があり、あの日子供たちは自宅待機を命じられ北側の校舎にいたのは主に教師たち。南側の校舎は三菱兵器製作所の事務所として使われ、社員や学徒たちが働いていました。

原爆が落とされた瞬間、校舎に凄まじい爆風が襲いかかりました。138人が死亡し、生き残ったのはわずか20人でした。頑丈な鉄筋コンクリートの校舎の中で、どのようにして多くの人が亡くなったのか、これまであまり語られてきませんでした。

被爆後の旧城山国民学校

城山国民学校で奇跡的に生き残ったのが金谷弘子さん(86歳)です。金谷さんは当時17歳で、三菱兵器製作所に動員されていました。あの日、たまたま校庭にあった防空壕を掘る作業をしていて助かりました。凄まじい爆風は防空壕の中まで襲ってきたと言います。防空壕から這い出してきた金谷さんが目にしたのは爆風で破壊された校舎と、助けを求める同僚たちの姿でした。

長崎に投下された原子爆弾ファットマンは広島に投下された原爆の1.3倍の破壊力がありました。

原子爆弾ファットマン

被爆直後の犠牲者の死因は、約半数が爆風によるものでした。倒壊した建物の下敷きになったり、爆風で吹き飛ばされたりした人が大勢いたためです。爆風によって鉄筋コンクリートの建物が壊滅的な被害を受けた面積は、広島の約10倍に及びました。

被爆直後の長崎で爆風に注目して調査を行った科学者が、藤田哲也(ふじたてつや)博士です。竜巻の強さを示す国際的な尺度「Fスケール」を考案した竜巻研究の第一人者です。

2013年、藤田博士の遺品の中から原爆の爆風の威力を解明する手がかりとなる資料が発見されました。それは34点の写真。爆風が破壊した街の状況を意図的に狙って撮影したものです。

さらに、写真を元に作られた地図も見つかりました。色の濃さで爆風の威力を表しています。最も濃く塗られているのが城山国民学校があった爆心地500mのエリア。なぜ爆心地から遠ざかるほど色が濃くなっているのでしょうか?

長崎原爆資料館の奥野正太郎さんが注目したのは、城山国民学校周辺の写真に写りこんでいる木の状態でした。爆心により近いはずの400mの地点にある木々は根元がついた状態で残っているのに、爆心から500mの地点の木々は、全て根元から横に倒されていたのです。

真上から来た爆風が横に少しずつシフトしていく中で、ある地点で非常に強い爆風として横から吹き抜けていった可能性があります。なぜ爆心地から離れた500m付近で威力が強まったのでしょうか?

地面にぶつかった爆風は、ドーム上に反射し爆風が重なり合う部分がでます。爆心から広がる上からの爆風と、地面で反射した爆風が重なり合い、2倍以上に圧力を増し水平方向に進みます。この地面と水平に動く圧力の壁は、距離が進むにつれ、さらに高さと力を増していきます。これがマッハステムと呼ばれる衝撃波です。

長崎の原爆の場合、爆心地から300m付近でマッハステムが発生し、500m付近で破壊力がピークに達しました。

午前11時2分に原子爆弾が爆発し、その0.9秒後にマッハステムが城山国民学校に到達。8000トンを超える力で南側校舎の壁を水平方向に突き破り、わずか0.1秒で校舎の裏側へとつき抜けました。建物の骨組みは残りましたが、南側校舎の中にいた100人のうち96人が亡くなりました。

当時教頭だった荒川秀男さんは、マッハステムに襲われた校舎の中で何が起きていたのかを記録に残していました。戦後、荒川さんは生存者や遺族を訪ね歩き、87歳で亡くなるまで城山国民学校の被爆の記録を作り続けました。遺品の中から荒川さんが聞き取り調査を行っていた頃のメモが見つかりました。この中に南側校舎のことも書き残されていました。

爆風によって窓が吹き飛ばされガラスの欠片が鋭い刃物となって飛散し、天井が崩れ厚い漆喰が崩れ落ちた。これによって多くの人が爆傷熱傷した。この校舎を片付けるさい、崩れたコンクリートの間から何人もの遺体が発見された。

城山国民学校の教室の窓は、格子状の枠に沢山のガラスがはめ込まれたものでした。窓の格子から秒速10mで水平方向に飛び出したガラスが人々に襲い掛かり、吹き飛ばされた教室の壁、崩落したコンクリートの天井。猛烈な衝撃波マッハステムが校舎を次々と凶器に変えたのです。

損傷が激しく身元の分からない遺体が多くありました。遺体は家族に知らされることのないまま、校庭で荼毘にふされました。

マッハステムは計算されていた

原爆を落としたアメリカは、マッハステムの破壊力をどのように把握していたのでしょうか?アメリカ国立公文書館に当時の機密資料が残されていました。

1945年4月から始まった日本への原爆投下が話し合われた目標検討委員会で、マッハステムに関する議論が重ねられていました。会議の責任者であるアメリカ陸軍のトーマス・ファレル准将はマッハステムが引き起こす爆風の効果を事前に計算しておくよう指示していました。

その頃、アメリカは威力の強いマッハステムが発生する新型の爆弾を開発していました。後に長崎に落とされることになったプルトニウム型の原子爆弾です。

アメリカの核戦略を研究しているスティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン準教授によると、目標検討委員会の狙いはマッハステムの効果をいかに高めるかにあったと言います。

彼らは放射能についてはほとんど検討せず、爆風の効果が最も重要だと考えていました。その破壊力は放射線や熱線の比ではなく、爆風は全てを破壊し壊滅的な被害を引き起こすのです。マッハステムによる破壊を効率的に行うためにアメリカが検討を重ねたのが、原爆を爆発させる高さでした。住宅を全壊させる圧力5psi。この破壊力を広い範囲に及ぼすためには、爆発させる高度が鍵を握っていました。

例えば1000mで爆発させた場合、マッハステムは爆心地から遠く離れた場所で発生。その圧力は5psiに届きません。一方100mだと、マッハステムは爆心地付近で発生しますが5psiを超える圧力が及ぶ範囲は1.4kmにとどまります。

アメリカは周到な計算の末に原爆を長崎上空503mで爆発させました。5psiを超えるマッハステムは爆心地から1.7kmにまで及んだと見られています。

アレックス・ウェラースタイン準教授によると、目標検討委員会が重視したのは民間の建物を破壊することだったと言います。日本の軍需工場の中には、家族で飛行機の部品を作るような小さな所が沢山あったからです。アメリカは民間と軍の建物を区別していませんでした。

アメリカ軍の調査

原爆投下から1ヶ月余りが経った長崎にアメリカ軍が上陸し、原爆の効果を確かめる調査が始まりました。日本人の医師や科学者も動員し、建物の調査や被爆者への聞き取りを詳細に行いました。

この時の報告書には、城山国民学校の校舎の見取り図に誰がどこで亡くなったのか、記号で記されていました。記号には番号がふられていて、番号ごとに名前と死因が一覧表にまとめられていました。

原爆をどの高さで爆発させれば、どのくらいの被害を与えられるかという長崎で集めたデータは、その後のアメリカの核開発に利用されました。

人々を襲い長崎を壊滅させた衝撃波マッハステムは、周到に計画されたものだったのです。被爆から69年、城山国民学校の残された校舎は、あの日の記憶を静かに伝えています。

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知られざる衝撃波~長崎原爆マッハステムの脅威~

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