バリ島爆弾テロ事件の真相|アンビリバボー

地上の楽園と称されるインドネシア・バリ島。人々は優しく自然は雄大で癒しに満ちていることから神々の住む島とも言われています。

2002年10月12日、バリ島の中心部レギャン通りにある島でも特に人気の高い外国人専門のサリ・クラブは300人以上の観光客で大いに盛り上がっていました。ところが、サリ・クラブで爆発が起こってしまいました。

最終的な死者は202人になりました。2人の日本人が巻き込まれたということもあり、日本でも当時大きく報じられました。しかし、多くの日本人は事件をこの程度しか知りません。

捜査本部長に任命されたのはイ・マデ・マンク・パスティカ。彼は誰よりも正義感の強い男でした。そして、幼い頃からバリ島で育ってきた彼はこの島をこよなく愛していました。

爆発はクラブのみならず周辺の建物まで吹き飛ばされるほどの威力でした。舞い散った粉塵も含めると範囲は28ヘクタール。東京ドーム6個分に相当しました。これだけ大規模な調査は、当時のインドネシア警察だけでは難しく近隣のオーストラリア連邦警察やアメリカFBIにも協力要請が出されました。

目撃者たちの証言によると、事件があったレギャン通りでもう一つの爆発があったと言います。最初に爆発が起こったのはサリ・クラブではなく、向かいにあるパディーズ・バーの中でした。爆発の音を聞きサリ・クラブにいた人々が通りに出ようとした時、2つの目の爆発が起こりました。

目撃した生存者の聞き込みから、サリ・クラブの外に止まっていた白いライトバンが2つ目の爆発を引き起こしたことが判明。車が止まっていた所を調べると爆発により深さ60cmもの窪みが出来ていました。白いライトバンは跡形もなく粉々に吹き飛んでいました。

車の底には製造番号が刻まれているパーツがあります。それさえ見つけることが出来れば車の持ち主の特定につながります。

ところが、パスティカには捜査中止命令が下されてしまいました。それと同時に犯人の手がかりが埋まっている現場の撤去作業が始まりました。原因は現地の人々からの要請でした。

彼らは宗教上の考えからテロが行われた現場を一刻も早く浄化して、犠牲者の魂を清めたいと思っていたのです。

それでもバスティカは現時の人々を説得し、2週間の猶予をもらうことが出来ました。

現場からは焼け焦げた車の部品が次々と回収されました。大量の部品の中から白いライトバンの底のパーツを発見。しかし、車体番号は犯人によって削り取られ判別不可能になっていました。捜査は振り出しに戻り、再度現場での証拠品収拾が行われました。

捜査はパディーズ・クラブでも行われました。爆発物の破片が飛び散った場所から、爆発物は人のお腹付近の位置にあったことがわかりました。つまり自爆テロだったのです。

損傷箇所には同じ人物の皮膚組織がはりついていることも分かりました。DNAサンプルを照合すると、前科者リストにのっていたインドネシア人のものだと判明。

インドネシアにはイスラム過激派集団が存在します。実行犯が所属していたのは以前より警察にマークされていた組織でした。

捜査員たちは聞き込みの結果、インドネシアでは商用車として登録された車のみパーツの2箇所に車体番号が刻印されることになっていることを知りました。犯行に使われた白いライトバンは商用車として登録されていました。ライトバンの以前の持ち主が補強のためにパーツに刻印されているもう一つの車体番号を金属片で覆っていたのです。犯人たちも車体番号が隠されていることを知りませんでした。補強の金属片をはがすと車体番号があったのです。そして所有者はパディーズ・バーの自爆犯が所属する組織の人間だということも判明。全てが一致したのです。

犯人逮捕

合同捜査開始から約2週間後、ライトバン所有者のアムロジが逮捕されました。逮捕後アムロジは犯行を自供。アルカイダにつながるテロ組織のメンバーで、東南アジア全域にわたるイスラム国家建設を目的としたテロ行為であったことを認めました。

さらに、その自供をきっかけに34名のインドネシアテロリストが続々と逮捕され有罪判決を受けました。首謀者とみられる3名には死刑が言い渡され、事件から6年後に刑は執行されました。

現在は…

サリ・クラブがあった場所は現在駐車場となりかつての面影はありません。しかし、通りをはさんだ向かい側には犠牲者202名の名を刻んだ慰霊碑が建てられ祈りを捧げる人々が今も訪れています。

事件後、テロ対策に挑んだインドネシア。2010年には国家テロ対策庁を設置。テロ撲滅に力を入れています。パスティカは2008年に警察官を退職しバリ州知事に就任しています。

「奇跡体験!アンビリバボー」
バリ島爆弾テロ事件の真相

この記事のコメント