消せない放射能~65年後の警鐘~ウラルの核惨事|NNNドキュメント’13

日本テレビの「NNNドキュメント’13」で消せない放射能~65年後の警鐘~が放送されました。ウラル山脈の南に広がるロシア連邦チェリャビンスク州。ムスリュモワ村は3000人程が酪農や畑作を営む小さな村でした。この一帯で多くの人が奇妙な病に苦しんでいると聞き7年前にNNNドキュメントは取材に入りました。ラムジズ・ファイズーリンさんは疲れやすい体質に加え、いつも頭痛に悩まされていました。普通の子供と違うのではないかと両親が気づいたのは2歳の頃。頭だけが異常に大きい水頭症でした。しかし医者は原因について何も語りませんでした。ラムジズさんは大学入学後、体調を崩し通信制の学部に移りました。地元で教師になるのが夢だと言います。ラムジズさんの父親も母親も幼い頃から村を流れるテチャ川と共に生活してきました。しかしある日、川岸に有刺鉄線が張り巡らされ、近づこうとすると警官や兵士に銃で追い散らされるように。テチャ川に何があったのでしょうか。

テチャ川をさかのぼること50kmあまり「ここから先、外国人の立ち入りを禁止する」という看板が立っています。そこから先400mに核関連施設マヤークがあります。ソビエト時代には地図にも載っていない秘密施設。そこでは核兵器用のプルトニウムが製造されていました。核実験の成功をきっかけにソビエトは超大国への道を歩み始めました。アメリカとソビエトの威信をかけた核兵器の開発競争。マヤークはプルトニウムの生産におわれました。核兵器用のプルトニウムはいったん原子炉で燃やした後に使用済み核燃料から抽出されます。プルトニウムを取り出すと後に残るのが核のゴミ、高レベル放射性廃棄物。人が近づけば死にいたるほど強い放射線を放ちます。隔離して10万年以上管理しなければならない核のゴミ。マヤークでは1948年から3年間、これをテチャ川に投棄していたといいます。その放射能は10万テラベクレル。放射能はテチャ川の流れにそって拡散し、やがて流域の田畑、町、村を汚染していきました。

放射能の暗い影は放射線を浴びた本人だけではなく、その子供にまで影響を及ぼすことがあります。デニスラムくん(当時14歳)は右ひざから下がない状態で生まれ小さな頃から義足を手放せませんでした。両手も指がありませんでしたが手術でほんの少し回復できました。テチャ川の流域に広がる深刻な被害。しかし、放射能汚染はさらに続きました。

テチャ川の放射能汚染から9年後、マヤークは再び大きな過ちを犯しました。1957年、高レベル放射能廃棄物の貯蔵タンクが爆発したのです。放射能は東京都の10倍もの大地を覆いつくし付近の牧草からは半世紀を経た今もなお通常の100倍もの放射線が検出されます。1967年、マヤークは三度目の放射能汚染を引き起こしました。敷地内にあるカラチャイ湖は、かつて高レベル放射能廃棄物を投棄した湖です。水がかれて地上に顔を出したセシウムなどが風に舞い周辺地域に降り注いだのです。土をかぶせ放射能を封じ込めようとしていますが作業は困難をきわめ現在も飛散しています。マヤークが元凶となった3度の放射能汚染。それは「ウラルの核惨事」と呼ばれています。しかし、この事実を被害者が知ったのは発生から40年後のことでした。

ウラル放射線医学研究センターは被爆者と思われる人やその家族10万人を対象に治療や健康診断を行っています。ウラルの核惨事による被害者は推定27万人。しかしソビエト時代の調査は正確な数を明らかにしていません。マヤークの放射能汚染と住民の健康被害の因果関係は正確には分からないというのが政府の見解です。しかし、放射能が原因と見られる症状、そして被爆に苦しむ人たちは世代をこえて広がっています。

2006年、ロシアの原子力省は放射能汚染がもっとも顕著だったムスリュモワ村の移転を決めました。政府が村の移転を決断した数値は年間1ミリシーベルト。福島では1ミリシーベルトを超える地域でも多くの人たちがそのまま暮らしています。ムスリュモワ村の人たちは新築の家をもらい新ムスリュモワ村へ移住するか300万円もらって他の町に移住するかの選択を迫られました。結局、約3分の1が新しい村へ移住しました。大半の人たちが農業を営んできたムスリュモワ村ですが移転を推し進めた国が用意したのは新しい住宅だけ。農地はなく牧場もなく仕事はありません。唯一手にした住宅も粗さが目立ちます。壁も薄くて冬は寒さに震える毎日だと言います。

消せない放射能に引き裂かれた村。しかし核惨事を引き起こしたマヤークは今も動き続けています。




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