ナポレオンの初恋「秘められた皇帝のラブレターとデジレ・クラリー」|世界ふしぎ発見!

ナポレオン・ボナパルトは18世紀末、一介の将校から瞬く間に権力の階段を駆け上がり初代フランス皇帝としてヨーロッパを支配した英雄です。

ナポレオン・ボナパルト

1813年、そのナポレオンの運命を決める決戦がライプツィヒで行われました。後に「諸国民の戦い」と呼ばれることになる大戦争。ヨーロッパ各国の連合軍がナポレオンに挑んだ世紀の一大決戦です。50万人もの兵士が死闘を繰り広げたという激戦の行方が、その後の世界の歴史を変えました。

デジレ・クラリー

その世界の命運を決める戦いを遠く離れた地で複雑な思いで見守った女性が、スウェーデン王妃デジレ・クラリーです。デジレ・クラリーは現在まで続くスウェーデン・ベルナドッテ王朝の初代王妃

スウェーデンは諸国民の戦いではナポレオンに立ち向かう連合軍の側でした。ヨーロッパに君臨するフランス皇帝と戦いを挑むスウェーデンの王妃には秘められた絆があったのです。

それを物語るものがスウェーデンのストックホルム宮殿にあります。それはナポレオンがデジレ・クラリーに宛てて書いたというラブレター。公開には現国王の許可が必要です。

スウェーデン王室がこのラブレターの公開を渋るには、ある秘められた理由がありました。実はナポレオンが初めて結婚を約束した相手はデジレ・クラリーだったのです。しかし、2人の仲は後に引き裂かれる運命にありました。

デジレ・クラリーは1777年、マルセイユのクラリー家の次女として生まれ、暖かい南フランスの太陽の下、何不自由なく育ったと伝えられています。クラリー家が扱っていたのはマルセイユ石けん。マルセイユ石鹸は9世紀頃からすでに作られていたというマルセイユの名産。17世紀にはルイ14世によって全て天然の素材で72%以上の植物オイルを使わなければいけないというルールまで定められました。

そんな石鹸によって大きな財を築いたクラリー家。しかし、そんな一家を窮地に陥れる事態が起こりました。

運命の出会い

1789年、フランス革命が勃発。それまで虐げられていた国民の怒りは国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットを処刑しても収まりませんでした。王家を滅ぼし新たな権力を握った革命政府は、貴族や裕福な商人たちの弾圧を始めました。

そして、その煽りをうけデジレ・クラリーの兄も逮捕されてしまったのです。

その窮地を救ったのがナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトでした。これをきっかけにジョゼフはデジレの姉ジュリー・クラリーと結婚。

この縁でナポレオンとデジレは運命の出会いを果たすことになりました。2人は互いに一目惚れし、1年後には婚約までしています。

しかし、時代はフランス革命の混乱期。ナポレオンは陸軍将校として各地を遠征しているため、2人は手紙で近況を伝え合っていました。スウェーデンに保管されていたのは、ちょうどこの頃ナポレオンがデジレ・クラリーに送った手紙でした。

1795年、各地で活躍していたナポレオンは軍の辞令を受けるためにパリへ。ナポレオンの希望はデジレ・クラリーが待つ南フランス軍の司令官になることでした。ところが、彼に届いた指令はイタリア戦線への移動。しかも、陸軍の花形である砲兵から歩兵への配置換えまで指示されていました。

怒ったナポレオンは指令を拒否。厳しい減俸処分を受けることに。パリで貧しい生活を強いられるようになったナポレオン。そんな彼が一躍時の人となる瞬間がやってきました。

時代の寵児

1795年10月5日、ヴァンデミエールの反乱が起こりました。政府はこの反乱を鎮圧する指揮官にナポレオンを抜擢。ナポレオンはその期待に応え暴徒を瞬く間に制圧し、その功績により一気に国内の最高司令官の座を射止めました。

一躍時代の寵児となったナポレオンは、華やかな社交界にも呼ばれるように。そして、いつしか彼の心は石鹸の香りがする少女から都会の香りがする女性へと移っていきました。

ジョゼフィーヌと結婚

ナポレオンより6つ年上のジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネは、離婚歴がある上2人の子供がいましたが、サロンでは常に話題になるほど魅力的な女性でした。様々な権力者の愛人となってきたものの将来に不安を感じ始めていたジョゼフィーヌにとって若く有望なナポレオンは格好の標的でした。

そして、ジョゼフィーヌと出会ってわずか5ヵ月後、ナポレオンは彼女と結婚しました。

一方、マルセイユでナポレオンを待ち焦がれていたデジレ・クラリーは、結婚のニュースを人づてに聞くことになりました。傷心のデジレはナポレオンに宛て手紙を記しています。

もうあなたを考える事すら許されないのですね。ひとつ伝えたいのは私はこの先誰とも結婚するつもりがないということ。あなたが選んだ女性があなたを幸せにしてくれる事を願っています。

(デジレ・クラリーの手紙より)

ナポレオンはこの手紙に沈黙したままイタリア遠征へと旅立ちました。アルコレの戦いでナポレオンは連戦連勝。彼の名声は日ごとに高まっていました。2年の月日を経てパリへ戻ってきたナポレオンは、独裁者になるべく画策し始めました。

デジレ・クラリーの結婚

ちょうどこの頃、生涯結婚しないと決めていたはずのデジレ・クラリーは結婚を決めました。相手はジャン・バティスト・ベルナドットという将軍。彼はナポレオンより6つ年上で権力志向のナポレオンとは違い、共和制を支持する民衆派。ナポレオンの独裁を止めようとするものたちの急先鋒でした。

後にデジレは彼を選んだ理由についてこう言っています。

ベルナドットだけがナポレオンに対してノーと言える人だった。

(デジレ・クラリー)

しかし、ベルナドットの思いもむなしくナポレオンは国民の圧倒的な支持をもとに、フランス史上初の皇帝となりました。

その後、ナポレオンの号令のもとフランスはヨーロッパ各国に進出し、広大な範囲を支配下におく大帝国を築きました。しかし、皮肉なことにそれは彼の人生の転落の始まりでもあったのです。

デジレ・クラリー スウェーデン皇太子妃に

ベルナドットと結婚したデジレは、1808年にストックホルムにやってきました。身分はスウェーデンの皇太子妃として。当時スウェーデンでは、王位を継ぐ者が次々と亡くなり後継者問題に揺れていました。そこで、フランスの庇護を受けるため陸軍元帥だったベルナドットを皇太子に迎えようとしたのです。

ナポレオンはこれを承諾。ベルナドットは名前もスウェーデン風に改めカール・ヨハンと名乗るようになりました。

ナポレオンの転落

1812年のロシア遠征で、ロシアの厳しい環境を考慮していなかったナポレオンは、寒さのために初めての大敗をきすることに。ヨーロッパ各国は、これを千載一遇のチャンスととらえ対フランスの大同盟を結び立ち上がりました。

そして1813年、現在のドイツ東部の街ライプツィヒでナポレオンの運命を決める戦いの火蓋が切られることになりました。のちに「諸国民の戦い」と呼ばれるようになるこの戦いは、フランス軍19万に対しヨーロッパ連合軍32万。その連合軍の総指揮をとることになったのがベルナドットでした。

戦いは4日間に及ぶ激戦で、数で劣るフランスはナポレオンを中心に善戦。しかし、その戦法を知り尽くしたベルナドットは、突撃を避け包囲を狭める形で戦いを有利に進めました。結局、この戦いでナポレオンは兵の3分の1を失って敗走しました。

ナポレオンを完全に打ち破ったベルナドットですが、その心にはライバル心以上にナポレオンへの憎しみがあったとナポレオン協会のフランソワ・ウードセクさんは言います。デジレとベルナドットの間にはオスカーという一人息子がいますが、この名はデジレが頼んでナポレオンに付けてもらったと言われているのです。

その後、ナポレオンは皇帝の座をおわれ大西洋にある孤島セント・ヘレナ島で5年半の幽閉生活を送り、51年の波乱の生涯の幕を下ろしました。

デジレ・クラリーは、1844年スウェーデン国王ベルナドットの最期を看取り、その16年後、83歳で亡くなりました。デジレが亡くなった時、枕の下から見つかったのがナポレオンがデジレに送ったラブレターだったそうです。

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ナポレオンの初恋 ~秘められた皇帝のラブレター~

この記事のコメント

  1. 匿名 より:

    憎しみ云々より、一刻も早く平和にしたかった戦争を終わらせたいと言うベルナドットの心を平気で踏みにじってますね、この番組は。
    背景も何もあったもんじゃありませんよ。
    そんなのを公開してほしいという図々しさに呆れますよ。