佳山明生は今… 「氷雨」に翻弄された男の転落人生|爆報!THEフライデー

1982年、日野美歌(ひのみか)さんが歌った名曲「氷雨(ひさめ)」は昭和を代表するヒット曲になりました。しかし、その裏で地獄に落とされた歌手が佳山明生(かやまあきお)さんです。

佳山明生さんは日野美歌さんの「氷雨」から遡ること5年、本家「氷雨」を歌った男性です。「氷雨」を80万枚のヒットに導いた佳山明生さんは日野美歌さんの登場により、人気歌手から居酒屋の皿洗いに転落していたのです。

北海道・函館生まれの佳山明生さんは1970年、19歳の時に歌手を目指して上京。夢は紅白出場でした。7年間もの下積みを経て27歳の時にようやく手にしたデビュー曲が「氷雨」でした。

時代は第一次カラオケブーム。80年代に入ると8トラと呼ばれるカセット式のカラオケが町の社交場に普及し大人気に。「氷雨」はそのブームに乗り1981年に再リリース。1982年には再々リリースを行い、5年という長い年月を経て1982年に80万枚を超える大ヒットに。その年のレコード大賞ロングセラー賞、有線放送グランプリを獲得。

この大ヒットで佳山明生さんはスターの仲間入りを果たしました。

日野美歌が「氷雨」でデビュー

ところが、日野美歌さんが「氷雨」でデビュー。佳山明生さんと日野美歌さんは別々のレコード会社でした。不満を感じた佳山明生さんはすぐに担当者に連絡しました。

実は、佳山明生さんのレコード会社の担当者は、1977年の「氷雨」発売直後に急死していたため、5年ものあいだ曲の出版権利が未申請だったのです。

こうして佳山明生さんが育ててきた「氷雨」は、20歳の新人歌手が歌うことに。女性の歌う艶やかな声がお茶の間を魅了。日野美歌さんが歌う「氷雨」は瞬く間に50万枚を売り上げ、トップ歌手の仲間入りを果たしました。

当時「ザ・ベストテン」では異例の形で2人が共演。1番を佳山明生さんが歌い、2番を日野美歌さんが歌いました。しかし、この歌唱順に佳山明生さんは強い憤りを感じていました。それは、最初に後輩が歌い、先輩が後に歌うのが普通だったからです。

さらに、佳山明生さんにとって最大の屈辱が紅白歌合戦で日野美歌さんが「氷雨」を歌ったことでした。

その効果は絶大で、世間の印象は「氷雨といえば日野美歌の曲」となってしまったのです。日野美歌さんは紅白を境にさらにブレイクしました。

転落

一方、佳山明生さんの歌う「氷雨」は売り上げも低迷。何をやってもうまくいかず、その後ヒット曲はなし。毎日のように酒におぼれ「氷雨」の大金はあっという間に底をつきました。

さらに、左耳の鼓膜が破裂。酒浸りの不摂生で患っていた中耳炎が悪化し鼓膜の切れ目から細菌が入り鼓膜が破れてしまったのです。

佳山明生さんは1989年に歌手活動を休止しました。

転機

その後、佳山明生さんは新宿の小さな居酒屋で働き始めました。歌とは無縁の生活が9年続いたある日、佳山明生さんの心を大きく揺さぶる出来事が起こりました。それは有線放送から聞こえてきた日野美歌さんが歌う「氷雨」でした。

日野美歌さんはデビュー後もずっとデビュー曲「氷雨」を歌い続け自分のものにしていました。

佳山明生さんは居酒屋を辞め再起を決意。現在、佳山明生さんは歌手として復活し今も「氷雨」を歌い続け、当時からのファンを大切にしています。

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