60年代 劇画とナンセンスの時代「カムイ伝」と「天才バカボン」|ニッポン戦後サブカルチャー史

1964年、アジアで初めて行われた東京オリンピックを機に、一気にお茶の間の主役に躍り出たのがテレビでした。子供向けのアニメ放送も開始。家族一緒に見るテレビは、明るい未来を映し出す夢の箱でした。

 

その頃、マンガ雑誌の世界でも変化が起きていました。これまでの月刊誌に加え週刊の少年マンガ誌が創刊されたのです。マンガは月1度の楽しみから毎週の楽しみへと変わりました。この頃に人気を博していたのが「オバケのQ太郎」や「8マン」などのヒーローたち。楽しく明るいキャラクターの主人公に導かれ、子供たちはマンガの世界に胸のすくような興奮を覚えていきました。

 

全共闘時代のバイブル「カムイ伝」

オリンピック開催の年、そんな子供向けのマンガ誌とは一線をかくす伝説の雑誌「ガロ」が現れました。「ガロ」は貸本マンガ家たちをこぞって起用。シュールで前衛的な作品や、リアルな画風のシリアスなストーリー漫画を次々と掲載。マンガは子供の娯楽というそれまでの価値観を覆し、一部の若者たちの熱狂的な人気を獲得しました。

 

そんな「ガロ」の看板作品が「カムイ伝」です。生みの親は貸本マンガ界最大のヒットメーカー白土三平さん。江戸時代を舞台に、身分社会の底辺に生まれた若者たちの生き様を壮大なスケールで描いた時代劇マンガです。

 

主人公は最も弱く虐げられた農民や差別された人々。差別や苦悩、社会の矛盾など当時重く暗いテーマを描いたマンガなどありませんでした。異端の漫画「カムイ伝」は一体なぜ熱狂的な支持を得られたのでしょうか?

 

この頃、戦後の団塊世代の若者たちが一斉に青年期を迎えようとしていました。高度経済成長に伴って大学進学率も右肩上がり。1964年には15%を突破。若者たちの中には国や政治のあり方に疑問を抱き、政治運動などにのめりこんでいく者も少なくありませんでした。

 

己の力で階級社会の底辺から抜け出し自由を追い求める忍者カムイと、知恵と努力で農民たちを束ね権力に立ち向かう正助の姿は、政治と闘争の季節を生きる若者たちの心を捉えました。「ガロ」はやがて、発売と同時に売り切れる程の人気をはくすようになり「カムイ伝」は全共闘世代のバイブルといわれるようになりました。

 

この頃の日本は、未曾有の好景気を背景に戦後の貧しさから抜け出し、人々は物質的な豊かさを享受していました。一方で、1968年10月の国際反戦デーには、学生運動の若者たちが新宿で大規模な抗議行動を起こしました。大混乱の中、騒乱罪が適用され、学生と警察との衝突は激しさを増していきました。同じ年、「カムイ伝」もカムイの孤独な戦いから、正助と農民たちの団結と闘争のドラマへと傾いていきました。

 

1969年1月、東大安田講堂を占拠した学生と機動隊が衝突。2日間にわたる激しい攻防戦の末、東大安田講堂は陥落しました。雪崩をうって崩壊していく現実の学生運動に影響されたのか、物語も思わぬ方向へと突き進んでいきました。農民たちはいったんは戦いに勝つものの、正助や一揆の首謀者たちは捕らえられ拷問によって次々と殺されていきました。正助だけは殺されませんでしたが、舌を抜かれしゃべることもできませんでした。

 

1971年7月、若者たちの政治と戦いの季節の終焉を予感させ「カムイ伝」第1部の連載が終了しました。その年の流行語は「気楽に行こうよ」カムイ伝が始まった60年代半ばとは明らかに違う風が社会に吹き始めていました。

 

赤塚不二夫のナンセンス

赤塚不二夫さんのデビューは1958年、トキワ荘で腕を磨きました。当時マンガ界を席捲していたのはストーリーマンガ。しかし、赤塚不二夫さんが活路を見出したのは当時は少数派の笑いやユーモアを取り入れたマンガでした。

 

当時も笑えるマンガはありましたが、それは新聞の四コマ漫画に代表されるほのぼのとした笑い。赤塚不二夫さんは、それとは全く異なるギャグマンガという新たなジャンルを作り上げていきました。赤塚不二夫さんのギャグマンガに欠かせないのは奇想天外のキャラクターたち。1967年4月にスタートしたナンセンスギャクマンガ「天才バカボン」は常識外れの中年男バカボンのパパと、愉快な家族がストーリーを引っ張ります。

 

主人公バカボンそっちのけでパパが暴走し騒動が起きる「天才バカボン」は、連載を重ねていくにつれ、ナンセンスな笑いの度合いをどんどん深めていきました。激しい安保闘争に明け暮れた1960年、そして学生運動が最高潮に達した1969年。くしくもどちらの年も流行語は「ナンセンス」でした。

 

60年代、古い体制や慣習を引きずったままの社会に、若者たちは無意味で馬鹿げていることを主張。ナンセンスという叫びで異議申し立てをしました。赤塚不二夫のナンセンスなギャグは、時代の気分と絶妙にマッチしていました。

 

いじめられてもいじめられても立ち上がる不屈の猫ニャロメは、警察に殴られても殴られても立ち向かう全共闘の学生たちをヒントに生まれました。学生たちもこのキャラクターに共感。東大には全共闘ニャロメ派なるセクトも誕生しました。

 

一方、未曾有の好景気の恩恵を受け、街には派手なファッションに身を包んだ若者たちも出現。宝くじの初売り出しには、夢の1等1000万円を狙う人々の長蛇の列ができました。そんな中、3億円の現金が強奪されるという前代未聞の事件が発生しました。

 

1969年7月には人類がついに月面着陸に成功しました。次々と飛び込んでくる驚愕のニュース。経済と科学技術が急激に発展する中、人々の価値観が大きく揺らいでいました。ギャグ漫画の天才は時代の空気を敏感に察知し、これまで誰も見たことのない漫画を次々と描き始めました。

 

マンガが60年代の終わりを告げた

1968年、次の時代への変わり目を告げる象徴的なマンガが登場しました。それはボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」です。主人公は下町貧民街から這い上がり、その青春をボクシングに捧げる矢吹ジョー。倒されても倒されても強大な敵に立ち向かっていく姿に、多くの若者たちが熱狂しました。

 

「あしたのジョー」の連載がスタートした1968年、日本のGNPはアメリカに次ぐ世界第2位に躍進。しかし、繁栄を支えた都市への急激な人の流れは都会と地方との格差を、急激に拡大する経済は人々の健康を蝕む公害を生み出していきました。

 

70年代も目前に明るみになっていったのは高度経済がもたらす影でした。「あしたのジョー」の主人公は、いわば高度経済成長に沸き立ち急激に変貌していく社会から取り残された人々の象徴でした。「あしたのジョー」は若者たちの共感をよび、少年マガジンの発行部数は150万部を突破。そして1970年、人類の進歩と調和をうたったアジア初の万博が開幕。人々は科学技術がもたらす明るい未来の夢に酔いしれました。

 

ところが、その2週間後、赤軍派の若者たちが航空機をのっとり北朝鮮へ亡命した「よど号ハイジャック事件」が起きました。犯行声明文の末尾には「われわれは明日のジョーである」と書かれていました。

 

「ニッポン戦後サブカルチャー史」
第3回60年代(2)劇画とナンセンスの時代

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