つかさのウィークリーマンションの社長・川又三智彦は今…|爆報!THEフライデー

1980年代、覚えやすいフレーズで一躍有名になったツカサのウィークリーマンションのCM。出演していたのは社長の川又三智彦(かわまたさちひこ)さんです。

敷金・礼金なしで家具・食器備え付けの部屋に短期間から利用できるウィークリーマンションを日本に初めて導入し大成功をおさめた人物です。絶頂期の年商は80億円、総資産は3000億円、自宅は24億円の豪邸でした。誰もが羨む超セレブ生活を送りバブルの不動産王と呼ばれました。

しかし、わずか1年で1000億円の借金を背負い、福島県の田舎で極貧生活を送っていると言います。バブルの不動産王と呼ばれた男がなぜ転落したのでしょうか?

川又三智彦さんは1947年、栃木県で生まれました。父親は不動産会社の社長で、高校まではエスカレーター式の一貫校で、大学はどうせ受からないからと親に泣きつきアメリカの大学へ。まさに絵に描いたようなボンボン息子でした。しかし、その大学も3年で中退。

23歳の時、父の会社「司建物管理(有)」に入社するも、川又三智彦さんは戦力にならず「ツカサの馬鹿息子」とあだ名がつけられたそうです。しかし、その13年後、親から会社を受け継ぎ社長に就任していた彼の運命が一変しました。

受け継いだ当時、会社は所有物件が古びたアパートの6部屋だけという最悪の経営状態でした。この当時、都心ではオシャレなワンルームマンションが流行し建設ラッシュ。ボロボロの木造アパートを好んで住む人などいませんでした。

川又三智彦さんが偶然思いついたのはアメリカの大学時代に住んでいたアパート生活。それは家具や食器が付いて権利金や敷金がないものでした。当時の日本にはまだなかった敷金礼金無料、1週間で1万9000円という家具食器付きのウィークリーマンションを思いつき、川又三智彦さんは古びたアパート6部屋を改修しました。

すると1年後には長期出張者や外国人ビジネスマンなどから大好評に。画期的なスタイルが評判を呼び、業績も右肩上がりに。

すると大銀行Kが5億円の融資を申し出てきました。しかも、頭取クラスの重役Xが若手を従え川又三智彦さんを料亭に招待。そして重役Xは「うちが付いた以上絶対に潰れません」と言ってきたそうです。ここまで言われ川又三智彦さんは5億円の融資を承諾しました。そして言われるがまま新しいウィークリーマンションを建設。すると建設開始時には5億円だったマンションの価値が完成時には10億円に高騰。

数か月後には別の銀行が10億円のマンションを担保に更なる高額融資を依頼してきました。こうして川又三智彦さんは銀行の融資を受けては新しいマンションを建設。そして、その新しいマンションを担保にして新たな融資を受けることを繰り返し、会社の規模をどんどん大きくしていきました。

気づけば融資を受けた銀行の数は約50行に。融資額は1400億円になっていました。その結果、会社の物件は7年間で47棟、約4000部屋にまで増加。社員は180人、年商80億円に。そして川又三智彦さんが持つ不動産の資産価値は総額3000億円にまで上がっていました。

一方、私生活も一気にセレブへ。自宅は高級住宅街として知られる渋谷区松濤に建てた24億円の豪邸。結婚相手は当時実業家のステータスとも言われた航空会社のキャビンアテンダント。1回の食事が10万円を超えることも当たり前でした。その後、子宝にも恵まれました。

しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。

1990年3月、大銀行Kに呼び出されました。融資している5億円をただちに返済しろと言ってきたのです。バブル景気で行き過ぎた不動産価格の高騰を落ち着かせるため総量規制の措置が取られていました。当時の大蔵省から金融機関に対し、不動産向けの融資を制限するように求めた行政指導です。銀行は不動産の価値が下がり不渡りを起こす企業が出てくることを察知し、これまで融資していたお金の回収を始めたのです。これがいわゆるバブル崩壊の始まりでした。

川又三智彦さんの不動産の多くは建設途中のマンションで売るには時間がかかりました。しかし、バブル崩壊のスピードはとどまることを知らず、わずか1年足らずで3000億円だった不動産の資産価値が300億円に暴落

何度も自殺しようと思った川又三智彦さんですが、会社にいた180人の社員を路頭に迷わすわけにはいきませんでした。会社を何とか存続させるためアメリカの大手投資銀行リーマン・ブラザーズを頼ることにしました。ウィークリーマンションを高く評価していたリーマン・ブラザーズは川又三智彦さんから事業を譲り受ける代わりに多額の借金を肩代わりしたのです。

何とか最悪の事態を乗り切った川又三智彦さんは、会社の再起をかけ新たな事業に取り組みました。それはレンタルオフィス。1990年代、アメリカで流行していたSOHOの考えを日本にいち早く取り入れたこの事業は再び大好評。会社の経営は何とか軌道修正ができる状況になりました。

ところが2008年9月、リーマン・ブラザーズが経営破綻。川又三智彦さんの会社も2009年3月4日に倒産しました。自宅も差し押さえられ自己破産。すると妻は彼のもとを去り子供たちともバラバラに。65歳で金、自宅、家族、全てを失い独り身になったのです。

路頭に迷った川又三智彦さんは2年前から福島県猪苗代町に移住。現在の収入は年金のみですが、地元の人々に助けられ野菜を貰うなどして食べるものに困ることはないと言います。

そんな川又三智彦さんは今、再びある野望を抱いています。それは廃業した民宿を再利用し、建物を改築してデイサービスにする計画です。さらに町に若者を呼び込むためドローンの操縦者を育成する学校を始める予定だと言います。

川又三智彦さんは今、新たな野望に燃え猪苗代でギラギラ生きています。

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