キリスト教を伝えたザビエルと戦国武将|137億年の物語

フランシスコ・ザビエルは、1545年に来日しキリスト教を伝えたとされる人物です。

 

フランシスコ・ザビエル

 

ザビエルはイエズス会の創設メンバーの一人ですが、元々はスペインで生まれ育った貴族でした。放蕩三昧の生活を送っていたザビエルはキリスト教に目覚め、イエズス会の創設メンバーに加わり世界にキリスト教を布教しようと考えました。

 

東洋への布教の旅

その後、ザビエルはポルトガル王の依頼で東洋へ布教の旅に出発。旅は長く過酷なものでした。

 

1541年にリスボンを出港したザビエルは、インドや東南アジアで布教。そして1549年に日本に辿り着きました。

 

ザビエルは元々とても好奇心旺盛な人で、布教の時も現地の庶民とすぐに仲良くなったと言います。ザビエルは率先して庶民の中に入り、日本各地にキリスト教を広めていきました。

 

ザビエルと戦国三大武将

織田信長

好奇心旺盛だった織田信長は、宣教師の待遇を良くしキリスト教の布教を認めました。城下町にはお寺と一緒に教会も作られていたと言います。

 

織田信長織田信長

 

織田信長は西洋の帽子やマントを身につけお寺からはお経が、教会からは聖歌が聞こえる町を闊歩しました。

 

織田信長が本能寺の変で死ぬまでの30年間で、キリスト教徒の数は15万人にも増えたと言われています。

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉も当初はキリスト教に好意的でした。しかし、1587年に伴天連(バテレン)追放令を出しキリスト教の布教を禁止

 

天下統一をはかる豊臣秀吉は、九州の大名がポルトガルの宣教師に土地を分け与えているのを見て激怒。このままでは外国に侵略されると思ったのです。

 

豊臣秀吉は宣教師を国外に追放し、長崎ではキリスト教徒を26人も処刑しました。記録に残る最初のキリシタン弾圧です。

 

徳川家康

徳川家康

 

徳川家康は諸外国との貿易に力を入れていたので、最初はキリスト教を黙認していました。当時、布教と貿易はセットだったのでキリスト教を取り締まると貿易が出来なかったためです。

 

キリスト教の弾圧

しかし、2代将軍の豊臣秀忠はキリスト教の団結力に脅威を感じ、1612年にキリスト教禁止令を出しました。踏み絵などによってキリシタンたちはあぶりだされ、改心しなければ処刑されました。

 

そしてキリスト教が大弾圧されることになる大事件が起きました。1637年、飢饉と重税に苦しむ島原と天草の農民たちが一揆を起こしたのです。彼らはキリシタンでした。女性や子供も含めた2万人以上のキリシタンが島原の城に立て篭もり、兵糧攻めにあいました。兵糧攻めは88日間に及び、弱ったところに総攻撃を受け女性や子供まで皆殺しにあいました。

 

この乱をきっかけに江戸幕府はポルトガル船の入港を禁止。キリスト教への弾圧をさらに強めていきました。

 

世界を変えた少年たちの悲劇

フランシスコ・ザビエルが伝えたキリスト教に身をささげ、歴史に翻弄された4人の少年たちがいました。

 

天正遣欧少年使節は、キリシタン大名によるローマ教皇への公式使節で、日本のキリスト教布教をアピールすることが目的でした。大航海に出た彼らの年齢は13~15歳。1582年2月に長崎を旅立ち、少年たちの訪問はヨーロッパで大きな話題となりました。

 

4人のリーダーは伊東マンショ(15歳)、同い年だったのが中浦ジュリアン(15歳)、サブリーダー的存在が千々石ミゲル(14歳)、原マルチノ(13歳)はメンバー最年少でした。

 

少年たちはザビエルの航路をたどるようにポルトガルのリスボンを目指し、ザビエルゆかりの地サンロッケ教会に辿り着きました。少年たちはサンロッケ教会に1ヶ月滞在した後ローマ教皇に謁見。少年たちが日本に帰国したのは出発から8年後の1590年。

 

しかし、その3年前に豊臣秀吉が伴天連追放令を出しキリスト教徒が弾圧される時代が始まっていました。少年たちはキリスト教徒としては入国を許されず、教えを捨てざるおえませんでした。

 

リーダーの伊東マンショは長崎で病死し、中浦ジュリアンは長崎で殉教。千々石ミゲルはキリスト教を捨て、原マルチノは追放先のマカオで死去しました。

 

しかし、少年たちは世界に大きな足跡を残していました。少年たちが訪れる前にヨーロッパで作られた地図には日本は丸い島として描かれていましたが、1595年の地図には少年たちが伝えた日本の形が反映されていたのです。

 

ザビエルの遺体は…

布教で世界を巡ったフランシスコ・ザビエルですが、彼の遺体もまた世界各地を巡っています。

 

中国で死んだザビエルの遺体はインドのゴアに運ばれ、いつまでも腐らなかったため奇跡とされ遺体は各地で祀られることになりました。

 

切断された右腕はローマに、耳と髪と歯はポルトガルに、胸骨の一部は東京など各地に分散されました。内臓もローマに送られ細かく切断されヨーロッパの教会や信者に配られたと言います。

 

ザビエルの右腕は聖腕(せいわん)として1949年と1999年に日本で展示されたこともあります。

 

「137億年の物語~宇宙が始まってから今日までの全歴史~」

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