黒田清輝の格闘 裸体画こそアートだ|日曜美術館

明治28年(1895年)京都で第四回内国勧業博覧会が開かれました。その展覧会に展示されたのが黒田清輝(くろだせいき)の裸体画「朝妝」です。鏡の前に立つ西洋の女性、柔らかな白い裸身をさらしています。

 

この絵は、風俗を乱すとして世間から激しい批難を浴びました。激しい批難に対して黒田清輝は一切反論せず口をつぐみました。ただ親しい友人に次のような手紙を送っています。

 

どう考えても裸体画を春画とみなす理屈がどこにある。日本の美術の将来にとっても裸体画の悪いということは決してない。悪いどころか大いに奨励すべきだ。今、多数のお先真っ暗連が何と抜かそうとかまったことはない。道理上、俺が勝ちだ。

 

世間のバッシングにも関わらず、当時の責任者の英断で裸体画の展示は続行されました。ただ、天皇の行幸のさいだけは展示に布がかけられたと言います。

 

裸体画に関する黒田清輝の自信は、フランスで培われたものでした。裕福な官僚政治家の養子だった黒田清輝は、明治17年に17歳でパリに留学。絵ではなく法律を学ぶためでした。

 

しかし19歳の時、友人たちにすすめられ画家になることを決意。黒田清輝が師事したのはラファエル・コランという画家でした。裸婦を中心に女性像を多く描き、裸婦の画家とも呼ばれました。コランに師事した黒田清輝が最も力を注いだのが裸体画のデッサンでした。

 

古代ギリシャ以来、裸体が美の理想を表すという思想を育んできた西洋。当時、フランスで最高位とされた神話画や歴史画を描くためには、人体デッサンが最も重要でした。黒田清輝も多くの裸体画デッサンを残しています。5年間、裸体画ばかり描いたと後に回想しています。

 

裸体画レッスンを通して西洋画をマスターした黒田清輝は、24歳の時に初めてフランスのサロンに入選。それが「読書」です。

 

「読書」

 

本を読みふける若い娘。窓から光が射し込みページをめくる手や顔を照らしだしています。

 

そして次にサロンで入選したのが日本で物議をかもすことになった裸体画「朝妝」です。9年間に及ぶ留学の総決算として描いた絵でした。フランスでも認められた裸体画の自信作だったからこそ、黒田清輝は非難にも一向に動じなかったのです。

 

裸体画騒動の翌年の明治29年、東京美術学校に西洋画科が新説され、黒田清輝がその指導を任されました。黒田清輝は自らがフランスで学んだように、実際のモデルを使った裸体画の授業を始めました。裸体画こそ美術教育の中心であるべきだという信念をおし通し、自らもまた新たな裸体画に挑戦しました。

 

日本人をモデルにした裸体画の三部作を黒田清輝は「智・感・情」と題しました。「智・感・情」はまたしても世間の論議の的になりました。女性たちは7.5頭身の理想的な体をしています。明治の日本女性でこんな体をした人は実際にはほとんどいなかったと思われます。黒田清輝は日本人モデルを元にしながら、理想的なプロポーションに作りかえていったのではないかと言われています。

 

1900年、世界から40か国以上が参加しパリで万国博覧会が開かれました。日本は工芸品や日本画とともに多数の洋画を出品。黒田清輝は「智・感・情」をはじめ、5点の作品を展示しました。その一つが「湖畔」です。油絵で描いた日本的な洋画だと言われています。

 

「湖畔」

 

博覧会に展示した日本の洋画家たちの中で、黒田清輝だけが銀牌を受賞しました。

 

パリ万博の翌年の明治34年、黒田清輝の裸体画は三度世間を騒がせます。「裸体婦人像」です。この絵が風俗をかき乱すと見なした警察は、下半分を布で覆ってしまいました。下半身を覆った布が腰巻を思わせたため、腰巻事件と呼ばれました。警察が下半身を隠したことで、かえって騒ぎを大きくしました。黒田清輝はこの処置に対し新聞紙上で次のように語っています。

 

裸体画は絵画にとって最も高尚なものに属するのに、世のわからずやはいまだに分かってくれないので困る。自分で言うのもおこがましいが最も難しい腰のところの関節に力を注いだつもりなのに、その肝心なところに幕をはられたわけだ。

 

黒田清輝は、その後も裸体画を描くことをやめませんでした。戸外のヌードにも挑んでいます。

 

40代になった黒田清輝が精力的に取り組んだ裸体画の大作が「花野」です。しかし、8年の歳月をかけても「花野」は未完のまま終わりました。50歳になった黒田清輝は次のように語っています。

 

私の欲を言えばもう少しスケッチの域を脱して絵というものになるように進みたいと思う。まだほとんどタブローというものを作る腕がない。

 

晩年、黒田清輝は貴族院議員になり、さらに帝国美術院長の要職に就きました。まさに、日本の美術界の頂点に立ったのです。

 

そんな黒田清輝に、またしても裸体画騒動がふりかかりました。大正13年(1924年)、東京でフランス現代美術展が開かれました。マティスやゴーギャンなどとともに黒田清輝の師ラファエル・コランの作品も展示されました。しかし、警察当局によってコランの絵画やロダンの彫刻などの撤去騒ぎが起きました。

 

黒田清輝は文部省など関係部局との交渉に奔走。その結果、特別室での展示となりました。その心労もたたったのか、黒田清輝はフランス現代美術展のすぐ後に亡くなりました。まさに裸体画と格闘し続けた画家でした。

 

「日曜美術館」
裸体画こそアートだ 近代絵画の父 黒田清輝の格闘

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