史上最悪の感染拡大 エボラ闘いの記録|NHKスペシャル

エボラウイルスと人類の壮絶な闘いが繰り広げられた西アフリカの中でも、最も過酷な現場となったのがシエラレオネ東部にあるケネマ国立病院です。流行の初期、国内唯一の専門病院としてエボラの感染拡大を防ぐ防波堤の役割を担いました。

 

エボラ対策の責任者として50人のスタッフを束ねていたのがウマル・カーン医師。カーン医師は、この地域の風土病に苦しむ人々を助けたいと医師を志しました。9年前にケネマ国立病院に赴任し、感染症のスペシャリストとして治療にあたっていました。

 

感染爆発の予兆

全ての始まりは2014年5月、産婦人科に入院した19歳のヴィクトリア・イラーでした。高熱を出したため点滴をしたところ、針を刺した場所から血が止まらなくなりました。

 

血液検査が行われ、見つかったのは大量のエボラウイルスでした。エボラウイルスは、患者の血液便などに触れることで感染し、特効薬はありません。

 

カーン医師は、すぐにイラーを隔離病棟に移すよう命じました。

 

エボラウイルスは、2014年3月に隣国のギニアとリベリアで小規模な感染が確認されていましたが、2ヶ月経ったこの頃は収束に向かっているとみられていました。

 

カーン医師は調査チームを結成しました。向かったのはイラーさんが暮らしていた町。町の診療所を訪ねると、周辺の町や村から運びこまれ高熱や下痢などを訴える人たちがいました。検査の結果、13人の感染が判明。そのうち2人がすでに死亡していました。奇妙なことに全員女性でした。

 

感染した女性たちには共通点がありました。3週間前にクポンドゥ村を訪れていたのです。ここに住む祈祷師の女性が死亡し、女性たちはその葬儀に出ていました。祈祷師は生前ギニアから来たエボラの患者を治療し、感染したとみられています。

 

葬儀には数百人が参列し、地元の風習にのっとり、女性たちが遺体を素手で洗い清めていました。大量のウイルスが含まれる血液などに触れた恐れがありました。一刻も早く手を打たなくてはならないとカーン医師は警告を呼びかけました。

 

エボラウイルスが人類の前に初めて姿を現したのは40年前。これまで流行したのは、主に中央アフリカの密林に点在する町や村でした。人の行き来が多くないことから、ほとんどの感染は数週間で終息していました。

 

しかし、今回エボラウイルスが出現した西アフリカは、人口100万を超える大都市が複数あります。カーン医師が警戒したのは、大都市への感染の拡大です。人口20万のケネマは交通の要所です。国境付近の村から、ケネマを経由して首都フリータウンまで通じる道を多くの人が移動しています。この人の流れによって、エボラウイルスが首都に侵入することを恐れたのです。

 

カーン医師は国境付近とケネマを結ぶ道路を封鎖し、感染地域を隔離するよう政府に訴えました。しかし、政府はなかなか対応しようとしませんでした。当時、確認されていた感染者は十数人だったため、社会的に大きな影響を与える感染地域の封鎖はまだ必要ないと判断されたのです。

 

ウイルスの封じ込め

道路の封鎖を断念したカーン医師は、感染者をケネマ国立病院に隔離し、ウイルスが広がるのを抑えようとしていました。最初の感染確認から13日目、感染者は33人になっていました。感染者はいずれも激しい下痢や嘔吐を繰り返し、立つのも困難でした。全身に広がったウイルスは、脳や内臓の組織を破壊。多くの人が10日もしないうちに亡くなりました。

 

カーン医師が命を救う唯一の手段と考えていたのが点滴でした。2週間体力を維持させることが出来れば、体の免疫がウイルスに打ち勝ち生存の可能性が高まります。しかし、点滴は医療スタッフのリスクを高めます。血管に針を刺すため、ウイルスを含む血液に触れる機会が増えるからです。過去には点滴を行わない医療機関も少なくありませんでした。

 

ウイルスに直接触れないようスタッフは全身を防護服で覆いました。カーン医師は、一人一人の容態に合わせて必要な栄養分を調合し、点滴を行っていました。

 

最初の感染確認から15日目、懸命な治療によってヴィクトリア・イラーが回復して退院しました。カーン医師は、治療の合間をぬって感染者から採取したウイルスのサンプルをアメリカに送り続けていました。

 

最初の感染確認から17日目、感染者は43人になっていました。そして、感染者を搬送しようとすると拒否されるケースが相次ぎました。住民の間では、病院に連れていかれると生きて帰れないという噂が広がっていたのです。

 

カーン医師は、各地から優秀な看護師を集め診療体制を強化し、感染者への点滴やケアを充実させました。カーン医師たちの治療によって、新たに3人の感染者が回復しました。カーン医師は退院セレモニーを開き、治療を受ければ助かるとアピールしました。

 

無関心との闘い

最初の感染確認から24日目、人口20万のケネマ市内で40歳の女性が感染。エボラウイルスは街中で一気に広がりました。さらに、首都フリータウンに近い町でも感染者が出ました。感染者の数は隔離病棟の定員を超え、廊下にベッドを置いて対応していました。さらに、防護服などの医療物資も不足。本来は使い捨てにすべき手袋を洗って使いまわしていました。

 

WHOがケネマ国立病院に医師2人を含む支援チームを派遣したのはこの頃でした。当時は、多くの専門家が流行は数か月でおさまると考えていました。

 

この10年、西アフリカは経済が発展し交通網が急速に整備されました。ケネマと首都フリータウンを結ぶ道路は物流の大動脈となっています。さらに、フリータウンからはロンドンやパリなどヨーロッパの主要都市への直行便も運航しています。ウイルスを封じ込められるかどうか時間との闘いでした。しかし、カーン医師が政府や海外の支援団体に訴えても進展はありませんでした。

 

届かぬ支援 孤独な闘い

最初の感染確認から1ヶ月、感染者は急増し受け入れは限界に達し始めていました。そうした中、看護師3人が感染し亡くなりました。これをきっかけに、多くの看護師が病院に出てくるのを拒むように。

 

カーン医師は、患者の命に優先順位をつけざるおえない状況に追い込まれました。感染者を救うためカーン医師が力を入れてきた点滴ですが、誰に行い誰を諦めるのか決めなくてはならなくなっていたのです。

 

この頃、感染者はシエラレオネの各地で次々と確認され始めていました。人々の間にエボラウイルスに対する恐怖心が高まりました。暴動が起き、病院に石を投げつける人も。病院のスタッフがウイルスを広げているという噂が広がっていたのです。それでもカーン医師は最善を尽くそうとしていました。

 

感染爆発

最初の感染確認から59日目、カーン医師がエボラウイルスに感染してしまいました。仲間の看護師が発熱したさい、具合をみようと素手で目に触れていたのです。その翌日、看護師が感染していることが分かりました。カーン医師は再び現場に立ちたいと自ら点滴を行っていたと言います。しかし1週間後、カーン医師は亡くなりました

 

ケネマ国立病院は、感染者が150人に達し新たな受け入れは不可能になりました。遺体があちこちに放置されるなど混乱していました。そして、首都フリータウンでエボラウイルスが広がり始めました。ギニアやリベリアでも感染者は急増。世界への感染拡大も懸念されるようになりました。

 

WHOは緊急事態を宣言。先進国に本格的な支援を呼びかけました。先進国は大量の物資と人員を投入し、封じ込めに奔走しました。感染者はカーン医師の死後、爆発的に増加し終息宣言が出るまでには1年半もかかりました。

 

ウイルスの遺伝子の変異を手がかりに感染の連鎖を辿ると、クポンドゥ村を起点に一気広がっていたことが分かりました。シエラレオネだけでなくギニアやリベリアで広がった感染もクポンドゥ村からもたらされていたことが分かったのです。

 

カーン医師が訴えたように道路の封鎖などが実行されていれば、その後の爆発的な感染の広がりを防げたかもしれません。

 

「NHKスペシャル」
史上最悪の感染拡大エボラ闘いの記録

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