町亞聖は今… 母の介護・失職でうつ状態に|爆報!THEフライデー

1990年代、アナウンサーとして日テレの顔を務めたのが町亞聖(まちあせい)さん。エキゾチックな顔立ちとハスキーボイスで朝のニュースを読む一方「いつみても波瀾万丈」などバラエティにも出演し大活躍しました。

 

しかし、2011年に日本テレビを退社。姿を見る機会も減りました。

 

 

現在44歳となった町亞聖は独身・ひとり暮らしです。一体なぜ突然日テレを退社したのでしょうか?

 

1995年、町亞聖さんは日本テレビのアナウンサーに。アナウンサーを志したのは病に倒れた母の存在がありました。町亞聖が18歳の時に母がくも膜下出血で倒れました。その後遺症で母は右半身麻痺、言語障害に。

 

そんな母の介護がきっかけで、介護問題を伝える仕事がしたいとアナウンサーを目指すようになりました。さらに、高額の医療費を稼ぐ必要もありました。しかし、激務と終わらない介護を両立する過酷な日々が待っていました。

 

町亞聖さんが朝5時のニュース番組を担当していた時、家を出るのは深夜2時でした。出社して放送をこなした後、アナウンス室の雑務をこなし、バラエティ番組のロケや収録、ナレーションの録音などやることは山ほどありました。入社1年目で担当番組は5本と周囲からの期待は高いものでした。

 

仕事が終わるとすぐに家に帰り母の介護。さらに、家族の母親代わりとして弟や妹の食事作りや掃除、洗濯など家事全てをこなしていました。睡眠時間はわずか3時間だったと言います。

 

母の介護をして8年目、町亞聖さんが26歳の時、母が末期の子宮頸がんであることが判明し余命半年を宣告されました。言葉がうまく話せない母は自分の気持ちをうまく伝えられず、がんの判明が遅れてしまったのです。

 

母に残された道は苦痛を和らげる終末期医療だけでした。そして1999年11月9日に母・広美さんは亡くなりました。

 

部署異動でうつ状態に

町亞聖さんが29歳の時、アナウンス部から異動させられてしまいました。実は会社は医療や介護の番組企画を通していた町亞聖さんにアナウンサー以外の可能性を見出していたため、異動を命じたのです。

 

しかし、町亞聖さんはその意図を読み取ることができずアナウンサーの仕事を奪われたと思ってしまったのです。悔しい気持ちでいっぱいになり、最後の番組では涙が止まらなかったと言います。

 

その後、部署を異動してからの10年間、毎年異動願を提出し続けました。

 

38歳になった町亞聖さんは情報番組の制作スタッフに。多くのスタッフは自分より遥かに年下で、出演者の弁当や控え室の用意などアナウンサー時代には用意されていたものを用意する側にまわった町亞聖さん。何より町亞聖さんの心を痛めたのはアナウンサーとして活躍する同僚の姿を見ることでした。ストレスを抱えながら働く町亞聖さんはうつ状態になってしまいました。

 

退社 フリーアナウンサーに転身

そんな中、峰竜太(みねりゅうた)さんの言葉を思い出したと言います。峰竜太さんは町亞聖さんの介護生活を知っていた数少ない芸能人の一人で、町亞聖さんのアナウンサーとして最後の収録日、「町さんなら大丈夫」と声をかけてくれたそうです。事情を全て知っている峰竜太さんの言葉は町亞聖さんの心に深く染みました。

 

そして日本テレビ入社から16年、峰竜太さんの言葉を胸に会社を辞めることを決意。44歳となった町亞聖さんは今フリーとしてアナウンサーに返り咲いています。天国の母に晴れ姿を見せるため、町亞聖さんは今日もカメラの前に立っています。

 

「爆報!THEフライデー」

この記事のコメント