原節子 もみ消された熱愛の真相|爆報!THEフライデー

原節子(はらせつこ)さんは、1935年に15歳でデビューして以来「東京物語」をはじめ多くの名作に出演。圧倒的な美貌と清楚な演技で人々を魅了した昭和を代表する清純派女優です。

 

原節子

 

しかし1963年に43歳の若さで突如引退。その後、13万人の支持を集めた復帰署名運動をはじめ、ことあるごとに原節子待望論が映画界で持ち上がるも40年以上にわたり取材を全て拒否。未婚のまま鎌倉に住んでいると伝えられ、一度も公の場に姿を現しませんでした。そして2015年9月5日に亡くなりました。

 

原節子さんは恋の噂がとても少なかった女優です。記事になるのは映画界の巨匠・小津安二郎監督との恋の噂など、にわかに信じがたいものばかりでした。時には連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの記事も。しかし真相は二人に面識はなく、マッカーサーが映画を見て一方的に気に入っていただけでした。

 

矢澤正雄との熱愛

そんな原節子さんのもみ消された熱愛の相手は矢澤正雄(やざわまさお)さんでした。矢澤正雄さんは1936年のベルリン・オリンピックに出場した陸上選手です。日本のホープとして期待され、その精悍な顔つきで当時の女性たちから大人気だったと言います。

 

1937年に原節子さんの初恋の相手としてスクープされましたが、以来マスコミの取材を一切拒否したことで原節子さんと矢澤正雄さんの関係は闇に葬られてきました。

 

二人の出会いは1936年のことでした。映画のプロモーションでドイツに行くことが決まっていた原節子さん。映画会社がアドバイザーとして手配したのがオリンピックでドイツへ行ったことのある矢澤正雄さんでした。

 

原節子さんは5歳年上の誠実で真面目や矢澤正雄さんに惹かれ、いつしか互いに文通する間柄になったと言います。2人の初デートは銀座で、会うのは鎌倉の海岸が多かったそうです。二人にとって鎌倉は大切な場所でした。

 

しかし、1941年に太平洋戦争が勃発。徴兵された矢澤正雄さんは中国へ。死を覚悟した矢澤正雄さんは原節子さんを鎌倉の海岸へ呼び寄せこう言いました。

 

私は生きては帰ってこられません。あなたをどれだけ想っていても、あなたを幸せにすることが出来ません。もし私のことを想ってくれているなら忘れてください。

 

原節子さんにとって男性からの初めての告白は、同時に悲しい別れでした。

 

しかし、原節子さんは戦争中ずっと矢澤正雄さんに手紙を送り続けました。

 

そして1943年、矢澤正雄さんは戦地で肩と脚にけがを負い帰国。戦争という困難を乗り越えた二人は互いに結婚するのが当然だと思っていました。

 

しかし、矢澤正雄さんの父親が結婚に猛反対。そこにあったのは女優への偏見でした。実は当時、芸でお金を稼ぐ人たちへの差別が一部にあり、芸能界の女優といえども偏見の目で見られていました。

 

矢澤正雄さんは鎌倉の厳格な家柄で、親の言うことは絶対で反発することは出来なかったと言います。そして、矢澤正雄さんは父親がまとめた縁談相手と結婚しました。

 

一方の原節子さんは、失恋の悲しさを仕事にぶつけるかのように銀幕で活躍。国民的大女優となりました。

 

そして引退後は矢澤正雄さんとの思い出がつまった鎌倉で余生を過ごし、生涯独身を貫きました。

 

「爆報!THEフライデー」
芸能界もみ消されたスキャンダルの真相

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