パトリシア・ハースト誘拐事件|マサカの世界衝撃事件

1974年2月4日、全米を震撼させる事件がサンフランシスコで起こりました。アメリカ有数の資産家ハースト一族の三女パトリシア・ハースト(19歳)が誘拐されたのです。

ハースト家は全米に4つのテレビ局やラジオ局、新聞社、雑誌社を経営するメディア王。そのうえ、銀の鉱山と製紙工場を所有し不動産業も展開。その総資産額は3000億円とまで言われた代々続く資産家一族です。

そのセレブ令嬢が誘拐された事件は瞬く間にアメリカ全土に報じられました。中でもマスコミが注目したのは莫大な身代金でした。

パトリシア・ハーストは幼い頃から何不自由なく育てられ、17歳で父親に決められたフィアンセと婚約。婚約者のスティーブの家柄もまたアメリカ有数の資産家で、セレブ同士の結婚でした。

ところが、彼女の運命を変えたのは19歳の時。両親の許可を得て婚約者と同棲を始めたばかりの新居でテロリストに誘拐されたのです。

事件発生から9日後の1974年2月13日、カリフォルニア州のラジオ局に犯人たちからのテープが届きました。犯行グループからの要求は…

パトリシアを解放して欲しければカリフォルニアの貧困層全員に1人70ドル分の食料を支給せよ

当時、カリフォルニア州の貧困層は400万人以上いました。犯行グループの要求に応えるには900億円が必要とされました。さすがのアメリカ有数の資産家ハースト家も用意できる金額の域をはるかに超えていました。

犯人は貧困層の解放と資本主義の破壊をもくろむテロリスト集団SLAでした。SLAは貧困層の解放という思想をかかげつつも殺人や誘拐を繰り返してきた過激派組織。資本主義を憎む彼らにとって金持ちは敵でした。

パトリシアの父親は、パトリシアの命を救うため大規模な食料配給を開始しました。父親がその日に調達できた資金は8億円。900億円には及ばない額でしたが、娘の命を守るためなら1日でも早くと行動を起こしました。

これを知ったカリフォルニアの貧困層は食料の配給に長蛇の列を作りました。8億円かけた物資は3日も持たず、街では食料配給を要求する貧困層による暴動が起こりました。しかし、いくら要求通り食料配給を続けてもパトリシアは解放されませんでした。

誘拐から2か月後の1974年4月4日、SLAから戦闘服を着て銃を構えるパトリシアの写真が届きました。さらに、同封されたテープにはパトリシアから「SLAと共に戦う事を決めました」というメッセージが。この衝撃のニュースがマスコミに漏えいすると大富豪のスキャンダルと大きく報じました。報道陣はハースト家に殺到し一斉に家族を非難。両親は娘を信じ続けることしかできませんでした。

1974年4月16日、サンフランシスコで武装した集団が銀行を襲撃し、1万ドル以上の現金を強奪する事件が発生しました。犯人はSLAで、パトリシアも加わっていました。パトリシア・ハーストは強盗殺人の重要参考人として逮捕状が出されました。これによりパトリシアの婚約は破棄されました。

1974年5月14日、FBIはSLAのアジトをつきとめました。アジトがあったのはロサンゼルスの住宅街の民家。ここでSLAは一般市民に紛れて身を潜めていたのです。

警官隊の突入の様子はアメリカ全土に生中継されました。アジトに潜むSLAに降伏を呼びかけるものの、SLAは警官隊に向けて発砲。これにより警察もアジトへ発砲。警官隊が撃ち込んだ銃弾は5000発以上。その結果、アジトは炎に包まれ壊滅。焼け跡からは大量の兵器と5人のメンバーの遺体が発見されました。

1974年5月18日、壊滅したと思われたSLAからテープが届きました。その中には両親にあてたパトリシアのメッセージが入っていました。実はパトリシアは警官隊がアジトを包囲する直前に偶然仲間とともに外出していたのです。

あの銃撃戦で5人の同志の命を奪ったハースト家に告ぐ。お前らのようなファシストの豚野郎どもと私がこの先一緒に暮らすことは一生ない。貧民の生活を食い物にする虫けらどもに死を。

FBIはこれを受けて逃亡しているメンバーとともにパトリシアを全米に指名手配しました。

1975年9月18日、FBIの必死の捜査の末、パトリシア・ハーストは逮捕されました。彼女は残りのメンバーと共にアジトにいるところを捜査員に踏み込まれ、SLAは事実上壊滅しました。世間の注目は彼女が脅されてやった犯行なのか、自らの意志で犯行を犯したのかでした。

逮捕後の取り調べにより、パトリシアは自分の意志で銀行を襲撃したと自白。さらに、組織で生活する中で恋人まで作っていました。一体なぜこんなにも人格が変わってしまったのでしょうか?実はパトリシアはSLAに洗脳されていたのです。

SLAによる洗脳

SLAは70年代という早い段階から、今もカルト教団でよく用いられる洗脳的な心理操作の方法を用いていました。SLAのアジトに連行されたパトリシアは、目隠しをされたまま監禁されました。食事も目隠しをしたままで、外に出るのを許されるのはトイレの時間のみ。その間、外部の情報は一切遮断されました。

人は閉鎖的な空間で極限状態に追い込まれると、次第に理性を失っていきます。そんな恐怖と不安の中でパトリシアの味方となる人物を作る事で、閉ざされていた心を簡単に開かせる事ができます。

誘拐から57日後、パトリシアは監禁を解かれました。そしてSLAにとって都合の良い事実だけが伝えられ、SLAの思想を受け入れ洗脳されていきました。

SLAはこの洗脳の手口でメンバーを集めていました。メンバーの多くが上中流階級出身の教育を受けた白人の男女でした。そして洗脳の仕上げとしてパトリシアは「タニヤ」という名前を与えられました。カルト教団で用いられることが多い「ホーリーネーム」をつけることで、自分は特別な存在という暗示にかかりやすくなるのです。こうしてパトリシアは身も心も洗脳されSLAのメンバーとなっていきました。

その後のパトリシア

その後、パトリシアは禁固3年を言い渡されました。刑務所に収監されたパトリシアには洗脳をとく治療が施されました。そして1979年2月1日、パトリシアは釈放されました。

釈放後、ボディーガード役をつとめたロサンゼルス市警の警察官と結婚。2人の娘に恵まれ、娘たちは女優、モデルとして活躍。パトリシアはハースト家の資産の一部を譲り受け、幸せに暮らしています。

「マサカの世界衝撃事件」
パトリシア・ハースト誘拐事件

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