服部半蔵 家康の頼れる家臣|歴史秘話ヒストリア

忍者はつらいよ!武士になろう!の巻

天文11年(1542年)三河国(現在の愛知県岡崎市)で服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)は生まれました。六人兄弟の五番目でしたが幼い頃から力が強く、兄たちにも負けないワンパク者だったと言います。

 

父・保長は松平家に使える足軽でした。保長の実家が忍者の里として知られる伊賀でした。伊賀には忍び、つまり各地の武将に雇われてスパイのような働きをする者が多く「伊賀者」と呼ばれていました。

 

しかし、忍びの仕事は依頼があった時だけ。普段は田畑を耕したり商売をしたりしてどうにか生計を立てていました。服部半蔵の父は不安定な生活から抜け出そうと忍びを辞め、三河に移ったと考えられます。そして、松平家の足軽となったのです。

 

日々、槍の稽古に励んだ服部半蔵は屈強な若者に成長し、父と同じく松平家の足軽になりました。その時の主は松平元康、後の徳川家康です。

 

徳川家康

 

服部半蔵が20歳をむかえた頃、鍛えた槍の腕前を発揮する機会がやってきました。家康は西の織田信長と同盟を結び、東の今川家と対決したのです。

 

当時、今川家では家康の嫡男が人質となっていました。我が子を救い出そうと家康は戦いを挑んだのです。この大事な戦で手柄を立てれば出世すること間違いなし。服部半蔵は得意の槍をふるい敵を次々と仕留めました。戦は家康勢の圧倒的な勝利で、人質だった嫡男を取り戻すことに成功しました。

 

勇ましく戦った服部半蔵は、その噂を聞いた家康に呼び出されました。足軽が大名に目通りを許されるのは極めて異例のことでした。家康に言葉をかけられ服部半蔵は奮い立ち、次の戦では真っ先に敵陣に飛び込み奮戦。服部半蔵は出世街道を駆け上っていきました。

 

服部半蔵は家康にとりたてられ、嫡男・信康の側近くに仕えるようになりました。家康と信康からの厚い信頼を得て、服部半蔵は出世のためだけでなく主の信頼にこたえたいと思うように。主君への忠誠を新たにした服部半蔵の勢いは凄まじいもので、あまりに激しい戦いぶりから「鬼半蔵」と呼ばれるようになりました。

 

そして31歳の時に150人の部下を与えられました。それは伊賀の忍びたちでした。家康は服部家が伊賀ゆかりであることを見込んで、服部半蔵に忍をまとめ敵を探る役目を与えたと考えられます。服部半蔵は忍者集団を率いて、新たな任務に取り組むことになったのです。

 

鬼半蔵の目にも涙の巻

天正7年8月、家康の嫡男・信康が敵に通じているという謀反の疑いがかけられました。その敵というのは家康にとって最大の脅威である武田家。武田家と家康の妻が内通し、信康も母親に協力して徳川家の機密情報を流しているというのです。

 

徳川家と共に武田家と戦っていた織田信長はこれを知って大激怒。妻と信康の処分を家康に迫ったのです。

 

当時、武田家は戦国最強とも言われる忍び集団「すっぱ」を抱えていました。すっぱは、敵の大名家の奥深くに入り込み、家臣の寝返りを誘うなど家中を混乱させることが得意でした。これまでにも服部半蔵は徳川の領内で武田の手のものを捕えていました。この噂も、武田の忍びが信康を陥れようとするものではないかと考えました。

 

服部半蔵は、配下の伊賀者に情報を集めさせました。しかし、信康の疑いをはらせるようなものはなく、むしろ信康に不利なことを示す情報ばかりでした。

 

8月下旬、信長の要求を拒みきれなくなった家康はついに決断。まず武田家に通じた張本人とされた妻を処分。そして半月後、信康に切腹が命じられました。

 

介錯の役目を命じられたのは皮肉にも服部半蔵でした。服部半蔵は涙が溢れ刀を振り下ろすことができず、別の家臣が代わって介錯しました。

 

服部半蔵は信康の亡骸から遺髪を切り取りました。守るべき人を守れなかった無念の思い、服部半蔵にとって生涯忘れることのできないつらい出来事でした。

 

危機一髪!決死の脱出作戦の巻

天正10年6月、京都で信長と会見した家康は服部半蔵たちを連れて堺を見物していました。そんな中、本能寺の変が起こったという情報がもたらされました。

 

明智光秀が次に狙うのは、織田信長の同盟者・徳川家康に違いありませんでした。この緊急事態に家康の手勢は30人程。ましてや戦の準備など全くしていませんでした。

 

服部半蔵たちは本拠の三河に一刻も早く帰る方法を考えねばなりませんでした。明智勢に発見されず最短で三河に帰るルートは伊賀を通ることでした。

 

ところが、伊賀には別の危険が。伊賀の山々には金品を狙って通るものを襲う山賊たちが潜んでいたのです。中でも伊賀国の端にある加太峠は、山賊が支配する最も危険な場所でした。しかも、石田光秀からは家康を討てば恩賞を与えるというおふれも出されていました。

 

服部半蔵が最初に考えたのは味方を集めること。言い伝えによれば、服部半蔵は狼煙を伊賀の里からよく見える御斎峠で上げました。狼煙で伝えたのは、伊賀の徳永寺に集まれというものだったと言います。集合場所の徳永寺は最大の難所である加太峠の手前にあります。服部半蔵はここで伊賀の忍びたちと合流し、万全の態勢でピンチを切り抜けようとしたのです。

 

徳永寺には200人もの伊賀者が集まりました。服部半蔵たちは集まった伊賀者たちと共に加太峠へ。先々に見張りをたて敵が潜んでいないか情報を収集。連絡をとりあって山賊の襲撃にそなえました。

 

忍びたちの働きで、山賊が横行する加太峠を何とか通り抜けることができました。一行は無事伊賀を出て伊勢に到着。そこから船で三河に帰り着きました。決死の脱出劇は見事成功したのです。

 

服部半蔵の足跡は今も残されている

天正18年、家康は関東に移り江戸城へ。服部半蔵は江戸城西門の近くに屋敷を構えました。いつしか西門は「半蔵門」と呼ばれるようになりました。半蔵門の警備にあたったのは伊賀の人々でした。家康は伊賀越えで力を貸してくれた忍びたちを家臣に召し抱えたのです。

 

伊賀の忍びたちは江戸時代、徳川将軍家のため隠密となって働きました。平和な世が続くうち、いつのまにか忍びの仕事は消えていきました。

 

戦で幾度も手柄を立て忍びの頭領として徳川家を守った服部半蔵。そのたぐいまれな武勇から、いつしか服部半蔵の名は日本一の忍者として語り継がれていきました。

 

「歴史秘話ヒストリア」
転職忍者ハットリ君の冒険
~家康の頼れる家臣 服部半蔵~

この記事のコメント