ドラゴンは生きていた!?|地球ドラマチック

中世ヨーロッパの人々は、ドラゴンの恐怖に慄いていました。当時の人々にとって、ドラゴンは熊やオオカミと同様に現実の生き物であり、悪魔と同じ災いの象徴でした。

 

伝説の勇者がドラゴンを退治する物語は、何千年も前から語りつがれてきました。中には架空の物語ではなく、事実として記録されているものもあります。

 

火を吐く巨大な怪物は実在したのでしょうか?

 

 

人を襲う怪物

西暦793年、イングランド北部リンディスファーン島で暮らしていた修道士たちが侵略者に殺戮されました。

 

歴史的書物「アングロ・サクソン年代記」には、侵略の前に上空を舞うドラゴンが目撃されたと記されています。高い知識と教養を持つ修道士たちは、本当にドラゴンの存在を信じていたのでしょうか?

 

修道士たちは、古代から伝わる数々のドラゴン伝説を学んでいました。もっとも古いものの一つがティアマトの伝説です。ドラゴンの姿をした古代メソポタミアの女神ティアマトは、英雄に口を突き刺されて退治されました。

 

中世の初期に書かれた動物の寓話集にはゾウや熊、鳩など実在の動物と並んでドラゴンの姿が描かれています。

 

古代に各地に広まったドラゴン伝説は、中世のヨーロッパにも受け継がれました。キリスト教の修道士たちが神の福音について書いた本にもドラゴンの姿が描かれています。

 

ドラゴンは獰猛な怪物で翼があり、皮膚は硬い鱗に覆われています。鋭いかぎ爪と長い牙は強力な武器となり、吸血鬼のように闇夜に人を襲うこともあります。さらに、ドラゴンの最大の武器は口から吐く炎です。

 

8世紀のイングランドの人々は、ドラゴンは架空の生き物ではなく自分たちの周りに実在すると信じていました。

 

勇者ベーオウルフ

当時、多くの人々は字を読めず旅をすることもほとんどありませんでした。それでも、外の世界の出来事は口伝えに広まっていきました。口伝えによって生み出された有名な叙事詩が「ベーオウルフ」です。

 

主人公ベーオウルフは北欧の勇者で巨人を倒した後、王となりました。しかし、家来の一人がドラゴンの宝を奪ったため、怒ったドラゴンはベーオウルフの王国を破壊。ベーオウルフは年老いていましたがドラゴンとの戦いを決意し、一人の従者と共に恐ろしい怪物に立ち向かいました。

 

叙事詩「ベーオウルフ」には、武器や甲冑について詳しい説明があります。ドラゴンが架空の生き物だったとしても、ドラゴンと戦う道具は中世の兵士が実際に使っていたものです。ドラゴンは夜が明けるとねぐらに帰ります。宝物を溜め込んだ塚を住処にしているのです。

 

イングランドの各地には、先史時代の人々の亡骸や財宝をおさめた塚があり、ドラゴンはそうした塚の守護者とみなされていました。ベーオウルフに登場する恐ろしいドラゴンには墓荒らしを戒める意味も込められていたのです。

 

ベーオウフルに登場するドラゴンは300年もの間、宝の番をしてきました。しかし、黄金の杯が盗み出されたため、怒りにもえたドラゴンはベーオウルフの王国を破壊していきます。王国を守るためベーオウルフはドラゴンのねぐらを探し戦いを挑みました。

 

ドラゴンに噛まれたベーオウルフは毒に全身をおかされ、生きて戦える時間はわずかでした。彼は自らの命と引き換えにドラゴンを倒し、伝説の英雄として何世紀も語りつがれることになりました。

 

ベーオウルフが実在したという証拠は見つかっていませんが、1939年に伝説と一致する興味深い発見がありました。イングランド東部にある遺跡で、埋葬に使われた船が発掘されたのです。有力な王の物と思われる財宝、武器、甲冑なども見つかりました。ベーオウルフの伝説と同時代のものです。兜には黄金のドラゴンの飾りがつけられていました。

 

叙事詩「ベーオウルフ」は事実と神話が混ざり合った物語です。ドラゴンが現実的な舞台に登場するため、恐ろしい怪物が本当に存在するかのように感じられます。

 

聖書にも登場

古くから語りつがれてきた「ベーオウルフ」を初めて書物に書き記したのは、イングランドの修道士でした。修道士にとってドラゴンは身近な生き物だったのです。修道士が毎日接している書物「聖書」にもドラゴンが登場するからです。

 

聖書の最後におさめられた「ヨハネの黙示録」にはドラゴンは災いの前兆世界の終末を人々に知らせる存在として書かれています。修道士たちは聖書の写本にもドラゴンの装飾を書き加えました。芸術品とも言える書物が数多く現存しています。

 

イングランド北東部に11世紀に建てられたダラム大聖堂があります。中世のイングランドにおいて、信仰の中心地として大きな役割を果たした教会です。大聖堂の貴重な宝の中に2冊の美しい写本がありますが、どちらにもドラゴンが描かれています。

 

正体はバイキング?

西暦793年にリンディスファーン島の修道院を襲ったのは、聖書に記されたようなドラゴンではありませんでした。海を越えてやってきた侵略者バイキングだったのです。

 

北欧に住んでいたバイキングは、ヨルムンガンドというドラゴンのような大蛇に畏敬の念を抱いていました。バイキングの故郷は、荒涼とした土地だったため大地の下に巨大な怪物が巣くっていると信じていたのです。

 

バイキングは、船首にドラゴンの彫刻を飾り敵を威圧しました。ドラゴンは人間の攻撃性や強欲を象徴していました。バイキングはドラゴンのように財宝を集めることに大きな価値を見出していました。

 

古代から伝わる伝説のドラゴンは次第に性質を変え、戦いのシンボルとなっていったのです。

 

呪いをかけられたシグルズ

北欧神話に登場する有名なドラゴンがファフニールです。もともと人間だったファフニールは、父親を殺し黄金を奪って地下深くに隠します。盗んだ宝を欲にくらんだ目で見ているうちに、ファフニールはドラゴンに変身しました。

 

ファフニールの弟で鍛冶職人のレギンは、父の仇をうつため怪物を倒せる特別な剣を作り始めました。レギンは出来上がった剣をシグルズという勇者に託しました。

 

この物語は北欧各地の岩に刻み付けられ、ワーグナーのオペラやトールキンの「ホビットの冒険」、「指輪物語」など後世の作品に大きな影響を与えました。

 

勇者シグルズは、ファフニールのねぐらに辿り着きました。ファフニールは炎は吐きませんが毒を含んだ息で敵を殺すことができます。

 

ドラゴンを倒し血を飲んだシグルズは、超人的な能力を手に入れますが、持ち帰った黄金には呪いがかけられていました。

 

ドイツではこの物語から叙事詩「ニーベルンゲンの歌」が生まれました。

 

バイキングの侵略

スカンディナヴィア半島のバイキングは、大海原に乗り出し財宝を略奪しました。略奪される側にとってバイキングは伝説のドラゴンとかわらない存在でした。

 

793年、バイキングの一団が目をつけたのは周囲から隔絶されたリンディスファーン島の修道院でした。バイキングがイングランドを襲撃したのはこれが初めてでした。修道院の宝は全て奪われ、書物は焼かれ修道院にいた者は殺されるか奴隷にされました。

 

修道院の襲撃は、バイキングのキリスト教世界に対する宣戦布告でした。その後、バイキングはロシアからアフリカに至る広い地域を侵略していきます。

 

フランスに定住したバイキングは、ノルマンディー公国を作り上げキリスト教に改宗。しかし、ドラゴンの荒々しさを失ったわけではなく、1066年イングランドへの侵略を開始しました。勝利をおさめたのはノルマンディー軍でした。

 

ノルマンディーはイングランドに王朝を築き、民を支配するためドラゴンを利用しました。自分たちはイングランドの民をドラゴンから守る存在だとアピールしたのです。ドラゴンの化身として恐れられた者が、ドラゴンと戦う者にすり替わっていきました。

 

戦った騎士の剣!

リンディスファーン島の近くに残る礼拝堂の跡には、ノルマン人の騎士の彫像が置かれています。ドラゴンを退治した英雄です。かつてこの土地もバイキングによって侵略されました。

 

この地にいたと伝えられるドラゴン「ワイヴァーン」はバイキングによる侵略の記憶から生まれたのかもしれません。

 

ワイヴァーンが架空の生き物だったとしても、戦ったのは実在の人物でした。ノルマン人の騎士ジョン・コニャーズです。コニャーズは、自らの領地に住む人々をドラゴンから守るのが騎士としてのつとめであると考えていました。

 

ダラム大聖堂には、コニャーズとドラゴンの戦いにまつわる遺物の剣が保管されています。ドラゴン退治は、自らの支配を正当化する格好の材料でした。ドラゴンとの戦いは、次第にキリスト教徒が悪を退ける物語と結びいていきました。

 

悪魔を倒した聖人たち

キリスト教は、大昔から人々が恐れてきたドラゴンと戦う役割を担うようになりました。こうしてドラゴンとの戦いは善と悪神と悪魔の戦いという意味をおびるようになったのです。

 

ヨーロッパ中の教会がドラゴンを仕留めた聖人を称えました。騎士にとって悪を退治することは勇気、神への献身を示す究極の方法だったのです。

 

聖ゲオルギウスは、古代ローマの兵士でキリスト教徒でした。異教徒の地でドラゴンを退治したため、人々は一斉にキリスト教に改宗したという伝説を残しています。聖ゲオルギウスのような聖人こそキリスト教戦士の理想とされました。

 

誕生 ヨハネ騎士団

1095年、ローマ教皇はキリスト教徒の騎士に対し、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するよう呼びかけました。十字軍の始まりです。多くの騎士が200年近くに渡って続く戦いに参加しました。

 

第1回十字軍では4年に及ぶ戦いの末、キリスト教徒たちがエルサレムを奪還。この時エルサレムで結成されたのがヨハネ騎士団です。ヨハネ騎士団は、体の弱った巡礼者を保護する目的で結成されました。

 

ヨハネ騎士団に所属する騎士はヨーロッパの地主階級の息子、ほとんどは末の息子でした。当時の慣習では教会や軍隊に入るのは長男以外の男子でした。騎士団には財産収入に関して厳しい決まりがあるため、長男が入ると領地を相続できなくなってしまうからです。

 

1187年、エルサレムはイスラム教徒に奪還されました。聖地を追われたヨハネ騎士団は、キプロスを経て1309年にギリシャのロードス島を新たな拠点としました。交通の要所にあたるロードス島は戦略上重要な場所だったため、騎士たちはロードス島をイスラム教徒から防衛する任務をおいました。騎士たちはロードス島の町を堅固な城塞へと作り変えました。

 

ロードス島の怪物

しかし、騎士たちの敵は島の内部にもいました。教会へ向かう山道の洞窟に住み巡礼者を襲っていたドラゴンです。

 

巡礼者を守る義務をおった騎士たちは、ドラゴンを退治しようとしました。しかし、あまりにも多くの騎士が目的を果たせぬまま犠牲になったため、騎士団の団長はドラゴン退治を禁止しました。ドラゴンは家畜や農夫、巡礼者を襲い島中を荒らしまわりましたが騎士たちにはなすすべがありませんでした。

 

そんな中、騎士デュードネ・ド・ゴゾンが団長の命令に背いてでもドラゴンを倒そうと立ち上がりました。

 

最強の騎士 怪物に挑む

デュードネ・ド・ゴゾンの故郷、南フランスには昔から伝わるドラゴン伝説がありました。ドラゴンを退治した聖人を祝う祭りも毎年開かれています。

 

故郷に戻ったデュードネ・ド・ゴゾンは、ドラゴンの巨大な模型を相手に修行をし、最強の武器と甲冑も用意。そして、ドラゴンとの戦いに挑み、誰も果たせなかったドラゴン退治を果たしました。

 

死闘の末に・・・

しかし、騎士団の本部に戻ったデュードネ・ド・ゴゾンを待っていたのは意外な運命でした。団長は命令に背いたとして彼を牢屋に投獄し、ヨハネ騎士団から追放しました。

 

しかし、協議会のメンバーは団長の裁きに反対し、のちにデュードネ・ド・ゴゾンは騎士団への復帰が認められました。最終的にゴゾンはヨハネ騎士団の団長となり、7年に渡り指揮を取りました。

 

実在した騎士デュードネ・ド・ゴゾンの墓石には、ドラゴンを倒した英雄を意味する「ドラゴン・スレイヤー」の文字が刻まれました。しかし、ロードス島のドラゴンは実在したのでしょうか?

 

デュードネ・ド・ゴゾンは、ドラゴンの頭を持ち帰り人々に見せたとされています。17世紀には、町の入り口の門にドラゴンの頭蓋骨が飾られていたという話も残されています。

 

しかし200年後、それはワニの頭蓋骨だと判明。しかし、彼が持ち帰ったとされる頭蓋骨は現存しないためロードス島のドラゴンの正体は永遠の謎となり、ドラゴン退治の物語はこれを最後に聞かれなくなりました。

 

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