踊る昭和歌謡の謎|ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ

戦後すぐ日本人を魅了してやまなかった音楽はジャズでした。多くの若者たちが熱狂し酔いしれました。当時、踊れる場所として存在したのは駐留軍兵士向けのダンスホール。戦後間もなく日本人向けのダンスホールが誕生し、続々と全国にオープン。若者が社交ダンスを踊りました。

 

マンボ

そして、1952年に発売されたペレス・プラードの「マンボNO.5」が日本のダンスシーンに革命を与えました。この曲のヒットをきっかけにマンボのリズムは日本全土を駆け巡りました。マンボがうけたのは激しいリズムに合わせて自由に踊れることが大きかったと言います。これまでの社交ダンスのように決まったステップに縛られることはありません。

 

日本中がマンボ熱に犯された状況に、戦前から活躍する作曲家・服部良一は抵抗し「ジャジャンボ」なる新しいリズムを作り出しました。しかし、マンボ熱の前にヒットにはつながらず。

 

そして、マンボはリズムやダンスだけにとどまらず若者たちのファッションにも影響を与えました。当時、流行の最先端だったのはズボンの裾を短くした通称マンボズボン。後に登場する太陽族のファッションにみられるスタイルです。一方で、マンボの持つ自由奔放さに眉をひそめる大人たちもいました。

 

そして1956年、マンボの王様ペレス・プラード楽団が来日。外国人アーティストとして初の日本ツアーを行いました。50年代、突如現れたマンボというリズムは単なる流行ではなく戦後日本の大衆に踊る楽しさを伝えたのです。

 

ロックンロール&ロカビリー

マンボブーム冷めやらぬ1955年、ニューリズムとして紹介されたのは当時アメリカの若者たちが熱狂していたロックンロールでした。日本でも早速発売され若者たちにインパクトを残したものの大ヒットとはならずマンボブームを超えることはありませんでした。

 

その後はロックンロールの中でもカントリー的なにおいを持つ一部がロカビリーとして認知されステージショーへと変貌し熱狂的な支持を集めました。

 

そんなロカビリー以上にヒットを飛ばしたリズムが1957年に紹介された西インド諸島の民族音楽カリプソです。カリプソのブームは6ヶ月たらずで終息を向かえ、人々は次のニューリズムを求めることになりました。

 

ドドンパ

1958年、大阪に伝説のナイトクラブが誕生しました。その名は「クラブアロー」巨大フロアにはのべ100人以上入るボックス席が並び、300坪の日本庭園がトレードマークになったアローは東洋一の豪華高級クラブと評判をよぶように。専属の楽団アロージャズオーケストラは日夜ダンスミュージックを演奏。セレブリティ客層が中心になって踊っていたと言います。

 

ショーの司会者として引っ張り出されたのは永六輔、青島幸男、前田武彦など。専属歌手として抜擢されたのはアイ・ジョージ、坂本スミ子。夜な夜な著名人や音楽好きなどが集まり、アローはたちまち夜の商工会議所、夜の国会議事堂と異名を持つほどに。その評判は大阪はもとより東京へ日本中へと広まりました。

 

専属バンドが演奏するジャンルは多岐にわたりジャズ、ルンバ、チャチャ、マンボ、ロックンロールなど。踊れる要素を持った曲であれば何でもアリでした。

 

そんな中から自然発生的に生まれたのがドドンパ。大阪で生まれたドドンパのダンスは口コミ的にじわじわと日本中へ広まっていきました。振り付けの講習会が各地で行われ独特のステップが話題に。

 

ツイスト

1960年、日本がドドンパのステップを踏んでいた頃、アメリカやヨーロッパは腰を激しくひねって踊っていました。アメリカ生まれのリズム「ツイスト」の大ブームです。ツイストブームの中心地であるニューヨークのペパーミントラウンジを訪れたのが小林旭です。

 

彼はいち早くツイストを日本に紹介したいと考えました。そして翌年「アキラでツイスト」をリリース。以来、自身が出演する映画でもツイストをとりあげ、小林旭は日本におけるツイストの伝道師となりました。人気歌手たちもツイストのリズムにのせた楽曲を次々に発表しました。

 

ニューリズムの迷走期

ツイスト以降のニューリズムはブラジル生まれの音楽ボサノバ。もちろん踊るための音楽として輸入し紹介されました。しかし、若者の音楽は多様化し流行の波を大きく変化し始めました。時代は必ずしも踊るを必要としなくなりました。ニューリズムは迷走期に突入。

 

そんな中、橋幸夫はニューリズムを一手に引き受けるかのごとくサーフィン、スイム、アメリアッチなど果敢に新しいダンスリズムを歌にしスマッシュヒットを飛ばしました。

 

しかし1966年、そんなニューリズムの時代を変えるような出来事が起こりました。ビートルズの来日です。日本全土を包むロックの熱狂の渦は、その年その年の流行を一つのリズムに求めるような時代ではないことを示しているかのようでした。

 

翌年、橋幸夫はメキシカンリズムとロックを合わせた「恋のメキシカンロック」を発表。しかし、すでにニューリズムの時代は終わっていました。1950年代から60年代にかけて毎年寄せては返す波のようにやってきたニューリズム。日本の踊る時代はここに一つの終止符をうちました。

 

ニューリズムの時代は終わり大衆音楽のシリアス化は単にポップスというジャンルにとどまらず社会全体を覆う空気ともなっていきました。

 

「ニッポン戦後サブカルチャー史Ⅱ」
踊る昭和歌謡の謎

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