ハンセン病の戦後|ハートネットTV

NHK・Eテレの「ハートネットTV」シリーズ戦後70年でハンセン病の戦後~人間回復への道~が放送されました。ハンセン病は治る病となった後も戦後50年に渡り隔離政策が続きました。患者たちは療養所で一生を終えることを余儀なくされました。

 

約200人の元患者が暮らす国立療養所・多磨全生園で森元美代治さんは妻の美恵子さんと共に暮らしています。ハンセン病は神経に作用する病気で体の一部に後遺症が残ります。森元さんは右目を失明し左目もわずかな視力しか残っていません。さらに手足にも障害があります。妻の美恵子さんも元患者ですが早期に治療できたため、ほとんど後遺症はありません。鹿児島県の喜界島に生まれた森元さんは14歳の時にハンセン病を発症しました。ごく軽い症状でしたが、すぐに親元から引き離され療養所に収容されました。ハンセン病患者は1931年にできた癩予防法によって全員が強制的に隔離されてきました。1940年代にアメリカで特効薬プロミンが開発され日本にも上陸。ハンセン病は治るようになりましたが、国は隔離政策を変えませんでした。森元さんが発症したのも治療が可能になった後のことでしたが療養所に入らざるおえませんでした。森元さんは岡山の療養所の中にある患者専用の高校に通いました。そこでは教師全員に白衣の着用が義務づけられていたと言います。修学旅行では観光地を船の上から眺めるだけ。感染の危険があるからと上陸はできない決まりになっていました。

 

こうした厳しい隔離政策は社会の偏見を煽ることに繋がりました。戦前、国はハンセン病は国力を弱めるとし、その撲滅をかかげ患者を見つけ次第通報させました。無癩県運動です。運動は戦後も残り感染力の強い不治の病というイメージが定着。患者の子供が小学校に通おうとし反対運動が起きた所もありました。発病したら二度と社会に戻れないという恐怖感が差別を助長させていったのです。

 

高校卒業後、森元さんは岡山の療養所から東京の多磨全生園に移りました。東京の予備校に通い大学に入りたいという夢があったからです。しかし外出は許されませんでした。患者の逃走を防ぐため堀がめぐらされ、鉄条網、柊の垣根が張り巡らされていました。森元さんは堀を越え垣根の隙間を見つけて脱出しては予備校に通いました。2年後、大学に合格しましたが、退所は許可されませんでした。ついには療養所を脱走。病を隠し下宿しながら大学に通いました。

 

国は患者の求めに応じて療養所の娯楽や医療を充実させていきました。暮らしが日増しに良くなる中、隔離政策への疑問を抱く人は少なくなっていきました。1970年、森元さんは病気が悪化し再び療養所に入所。その後、園内で出会った美恵子さんと結婚。2人は子供が欲しかったと言いますが、ハンセン病療養所では優生保護法を根拠に患者が子供をもうけるべきではないとされていました。強制的に断種手術を受けさせられることもあったと言います。療養所の生活が改善される中、多くの人はこうした権利の制限を受け入れるようになっていました。子供が欲しいという森元さんたちを周りの仲間は激しく非難したと言います。

 

1993年、森元さんは仲間におされ療養所自治会の会長に就任しました。療養所のさらなる環境改善に取り組もうとしていた矢先、衝撃的な出来事がありました。全国の自治会長が集まる会議でのこと。国のハンセン病政策の方針に大きな影響力を持っていた元厚生省の医務局長である大谷藤郎さんが「隔離は人権上問題だ。らい予防法を廃止すべきだ」と発言したのです。ところが多くの入所者は予防法廃止に反対しました。療養所がなくなり行き場を失うことを恐れたためです。森元さんは全国の仲間たちの説得にあたりました。半年後にみんなの意見を統一し、政府に隔離政策の過ちを認めるよう要求しました。そして1996年、らい予防法は廃止され戦後50年に渡った隔離政策が終わりました。


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