戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて “高度成長”何が奇跡だったのか|NHKスペシャル

1960年代、日本には夢が溢れていました。敗戦の廃墟からわずか20年余り、あらゆる夢を実現した成長を世界は「日本の奇跡」と呼びました。

 

明日は今日よりも豊かになれる」日本人の誰もがそう信じることができた高度成長時代。この高度成長はある理論によって導かれました。その理論をうちたてたのは大蔵省の官僚・下村治(しもむらおさむ)です。

 

高度成長など誰も想像さえしなかった終戦直後、下村治は闇市でメモを片手にモノの値段を書きとめていました。下村治は大蔵省の官僚でしたが、病気がちで出世コースからは外れていました。

 

闇市で下村治は客は乏しい財布をやりくりしながらも旺盛にモノを買い求め、店先には粗末ながらもモノが溢れていることを発見をしました。消費欲生産意欲という経済成長の最も大切な2つの要素を下村治はどん底の日本に見て取ったのです。この発見が後の高度成長理論の出発点となりました。

 

瀕死の状態の日本経済

この頃の日本経済は、マッカーサーの占領政策により瀕死の状態においつめられていました。最大の産業だった軍需産業は粉々に破壊されました。マッカーサーは経済の民主化実現のため財閥企業にとどまらず、あらゆる大企業の解体の準備を進めていました。工業生産は戦前の4割にまで落ち込みました。

 

マッカーサー

 

この容赦ない占領政策に対し、待ったをかけたのがアメリカ陸軍次官ウィリアム・ドレイパーです。ドレイパーはウォール街の投資銀行の経営者の出身で、関心事は日本の民主化よりもビジネスでした。

 

アメリカの投資銀行や大企業は戦前、日本に巨額の投資を行っていました。鉄道や電力などのインフラ建設関東大震災の復興資金です。その額は5億ドル(現在の価値で80億ドル)ウォール街にとって最も重要なことは、戦前に行った投資を早く確実に回収することでした。

 

なんとしても資金を回収したいドレイパーは、再三マッカーサーに経済政策を見直すよう勧告しましたが、マッカーサーは聞く耳を持ちませんでした。

 

しかし、東西冷戦が深刻化し、アメリカでは日本を反共の砦にするため、懲罰よりも経済復興を優先させる考えが一気に台頭。ドレイパーは日本を訪れ、占領政策の転換をマッカーサーに強く求めました。

 

そして、朝鮮戦争で日本経済は大きく息を吹き返しました。懲罰から復興支援に180度方針を変えたアメリカは、日本企業から大量の軍事物資を購入。鉄鋼、機械などの生産が急拡大。GNPの伸び率は1950年から3年連続で10%を超えました。

 

しかし、この好景気は長くは続きませんでした。朝鮮戦争終結と同時に特需というカンフル剤も消えたのです。日本にはまだ自力で成長する力はありませんでした。

 

重工業化への道

当時、産業政策を担っていたのは通商産業省。官僚たちは連日議論を重ねていました。資源のない日本は何かを作って生き残るしかありません。

 

目の前にある道は2つでした。1つは繊維などの軽工業の強化。軽工業は軍需産業に指定されなかったため戦後すぐに復興。特に繊維は安い人件費を武器に輸出は好調でした。

 

もう1つの選択は重工業化です。しかし、自動車や家電など民間産業は戦争で大きく立ち遅れ、戦後も工場の操業が制限されたため全く進んでいませんでした。

 

官僚たちが選んだのは、重工業への道でした。茨の道であっても付加価値が高い重工業の方が経済成長の伸びしろが期待でき、大量の労働力を吸収できるからです。官僚たちを重工業化にふみきらせたのは、戦争の遺産ともいうべき大量の技術者の存在がありました。

 

大量の技術者

日本は戦時中、技術者の養成に力を注ぎ軍の教育機関や大学の工学部では多くの若者が学んでいました。戦時中、最高のエリートを集め技術者教育を施したのが東京帝国大学第二工学部です。わずか9年間だけ存在した学部です。

 

戦争遂行のために作られた第二工学部は、戦後まもなく廃止され「幻の戦犯学部」とも呼ばれました。教壇には戦闘機の設計者や船舶のエンジニアなどが立ち、学生たちは実践的な知識を叩き込まれました。

 

黒田精工の最高顧問である黒田彰一さんは、東京帝国大学第二工学部で学んだ一人です。大学での専攻は兵器の製造を学ぶ造兵学科。戦争中はゼロ戦のゲージの製造を一手に任されていました。戦後も高い精度を誇るその技術は自動車作りに必要な特殊な金型や精密工作機械の開発にいかされました。

 

最高峰の技術者教育は自動車、家電、造船など、後の高度成長を牽引する人材を数多く育てていました。通産省の官僚たちは、戦争が図らずも育てていた技術者たちをいかすことで重工業化という困難な道を切り開こうとしたのです。

 

自動車産業の育成

通産省が取り組んだのは自動車産業の育成でした。自動車産業は鉄鋼、ガラス、ゴムなどの裾野が広いため、成功すれば重工業全体が拡大し莫大な雇用を生み出せます。

 

 

通産省は欧米に負けない車が生産できるまでの時間稼ぎとして、徹底的な保護貿易を行いました。輸入車には40%もの関税をかけたのです。

 

日本市場を狙う欧米から激しく関税の引き下げを迫られましたが、盾となって自動車産業を守り抜きました。通産省は後に日本のモノ作りを大きく発展させる法律「機械工業振興臨時措置法」もこの頃に制定しました。

 

最終製品を作るメーカーだけでなく、大企業に部品を供給するメーカーも支援しようとしたのです。資金繰りが苦しい中小企業でも低い金利で融資を受けられるようになり、思い切った設備投資が可能となりました。

 

日本の経済成長率は1955年に8.8%を記録。高度成長の出発点でしたが、当時は誰もこの成長がこれから20年近くも続くとは考えていませんでした。

 

ただし、下村治はこの好景気は歴史的な経済成長の始まりになることを見抜いていました。

 

日本は1955年から2年連続で高成長を記録。しかし、日本人の多くはいずれまた大きな落ち込みが来ることを覚悟していました。

 

下村治の高度成長論

下村治は、一刻も早く日本の成長を支える理論をうちたてようと論文の執筆を急いでいました。しかし、肺結核に倒れていました。それでも病床で執筆を続け、3年間の闘病から奇跡的に回復した下村治は論文を完成させました。

 

この理論をもとに下村治が導き出した予測は成長率10%。しかもそれが10年近く続くという途方もないものでした。しかし、この予測は後に実際に起こった成長と見事に一致しています。

 

下村治はあらゆる雑誌に寄稿し、日本経済に潜む経済力の高さを訴え始めました。なぜ下村治は日本経済の成長を信じることができたのでしょうか?

 

ケインズ理論を学んだ下村治は、それを発展させ経済成長の起爆剤は民間企業の設備投資だという結論に至りました。終戦直後から下村治は工場を歩き、貧弱な設備でも工夫をこらし一つでも多くの製品を送り出そうとする生産者の姿を目に焼き付けていました。生産意欲は溢れているため、後は企業の設備投資を促す政策を打ち出しさえすれば飛躍的な成長が自然に始まると考えていたのです。

 

所得倍増

1958年、下村治は衆議院議員の池田勇人と運命的な出会いを果たしました。池田勇人は大蔵大臣や通産大臣を歴任するなど将来を嘱望された政治家でした。しかし、相次ぐ失言で次第に総理大臣の器ではないと見れるようになっていました。

 

総理の座を目指すため目玉となる経済政策を探していた池田勇人は、下村治の高度成長論に飛びつきました。池田勇人は数式が並ぶ難解な下村治の理論を完全には理解できなかったと言います。しかし、日本には高い成長力が潜んでいるという下村治の考えには強く共感しました。そして難解な下村治の理論を誰にでも理解できる「所得倍増」という言葉に置き換えました。

 

1960年7月、所得倍増論を掲げた池田勇人は総理大臣に就任。池田勇人は下村治の理論通り、企業の設備投資を促すための政策を次々に打ち出していきました。税収の6%にも当たる1000億円という法人税と所得税の大減税を断行。さらに、銀行の貸し出し金利も引き下げ、企業が融資を受けやすい環境を作りました。資金が生まれた企業はこぞって強気の設備投資に走り出しました。

 

池田勇人の政策から1年で、設備投資の額は全産業で28%増加。自動車では35%も増加しました。

 

人口ボーナス

そして、この時に日本経済にとって最大の幸運「人口ボーナス」という現象が起こりました。終戦直後のベビーブームの世代が働く年代に達し、子供は少なく高齢化も進んでいませんでした。この人口ボーナスは途上国が先進国に生まれ変わる過程で、たった一度だけ起こる現象だと言われています。

 

働く世代は子供にお金がかからず、高齢者向けの負担も少なく収入の多くを消費と貯蓄に回すことができました。人々の旺盛な消費は、大量生産される製品をのみこみ貯蓄は銀行を通じて企業の設備投資の資金に変わりました。

 

1964年、東京オリンピックが開催されました。この開会式への出席が池田勇人の総理大臣としての最後の仕事となりました。がんに侵されていた池田勇人はこのあと辞任を表明し、翌年息を引き取りました。

 

1968年、日本のGNPは52兆円を突破所得倍増を達成世界2位の経済大国におどりでました。一人の天才の理論は、日本が蓄えてきた実力を引き出し一瞬の好機をとらえたのです。

 

石油ショック マイナス成長

高度成長のあまりに速いスピードは社会に歪みも生んでいました。「くだばれGNP」という言葉も生まれ、成長自体を否定する声も出てきました。所得倍増という目標を達成し、もはや経済で人々の心を一つにすることは難しくなってきました。

 

陰りが見え始めた高度成長に引導を渡したのは1973年の石油ショックでした。戦後初めてマイナス成長を記録。

 

かつて誰よりも強く日本の成長力を信じた下村治は一転して「もはや経済成長は望めない」と主張し始めました。企業の生産性はピークに達したと見ていたのです。

 

マネーの誘惑

しかし、下村治の予測は外れました。予期せぬ巨大な力が出現したのです。石油ショック後、企業体質を強化し再び成長軌道に乗った日本経済に世界からマネーが押し寄せました。地道な物作りをあざ笑うほどのマネーの誘惑に日本は駆られていきました。

 

そして今度はマネーが日本の右肩上がりの数字を支えていくことになるのです。

 

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