国境の島・対馬の憂鬱 ~国書偽造 秘められた真実~|歴史秘話ヒストリア

国境の島 歴史の島

土地の9割が山という対馬。平地が少ない対馬では、島民の生活の足は船でした。

 

海に浮かぶ鳥居は船のための参道です。悠久の歴史の中で対馬は度々外敵に襲われてきました。海に鳥居をたてたのはそのことも関係しています。

 

13世紀の蒙古襲来、15世紀の朝鮮による攻撃など危機に見舞われるたびに対馬の人々は神の加護を願って、一つまた一つと海に鳥居をたて、いつしか今の形になったそうです。

 

大陸から海を渡ってきたのは外敵ばかりではありません。日本に初めて仏教が伝えられたのも対馬でした。

 

対馬の経済を支えたのは貿易です。戦国時代から江戸時代にかけて朝鮮の文物が対馬を通じて盛んに輸入されました。こうした日朝貿易を主導したのが対馬の島主・宗家です。

 

日本と朝鮮の架け橋として繁栄してきた対馬ですが、戦国時代の末に存亡の危機を迎えました。豊臣秀吉が天下統一を果たして2年後の天正20年1月、時の島主・宗義智(そうよしとし)は秀吉から大阪城に呼び出され「朝鮮を攻める。義智が先鋒をつとめよ」と命じられました。朝鮮との貿易で島の生活を支えてきた義智は、何とか戦闘を回避できないかと働きかけましたが秀吉の決定は覆りませんでした。

 

天正20年3月、秀吉は16万の軍勢を朝鮮へ送りました。朝鮮の国情に通じ海峡や地理にも詳しい義智は出兵に不可欠な人材でした。義智は不本意ながらも先鋒をつとめました。朝鮮半島に上陸し釜山城を攻め落とすと、日本軍は各地の朝鮮軍を破りながら北上。わずか1ヶ月で現在のソウル、ハンソン(漢城)に迫りました。

 

宮殿は戦火に包まれ朝鮮国王は逃亡。被害は歴代の朝鮮王にも及びました。第9代国王の陵墓・宣陵(そるるん)が掘り返され王の棺も行方不明に。朝鮮王室では日本が攻めてきただけでなく王家の墓にまで手をかけたことで怒りが爆発しました。

 

文禄・慶長の役で日本と朝鮮の国交は断絶し、対馬の貿易も絶たれることになりました。対馬にとって朝鮮との国交断絶は死活問題でした。そこで宗義智は何とか国交を回復しようと奮闘を始めました。

 

こうして国書は偽造された

秀吉の死により戦いが終わった翌年の慶長4年、宗義智は朝鮮へ使者を送りました。しかし、使者はスパイの疑いで捕らえられ帰ってきませんでした。それでも義智は何度も使者を送り続けましたが国交回復には程遠いものでした。

 

慶長5年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利。家康は貿易や外交を重視していたため、秀吉が朝鮮に出兵する際にも反対してきました。朝鮮と国交を回復したいと考えた家康は、宗義智を呼び出し「国交回復を朝鮮王に働きかけよ」と命じました。義智は朝鮮に使者を送りました。

 

そして慶長9年7月、朝鮮から対馬に講和の使者が訪れましたが使者の姿勢は慎重でした。そこで義智は対馬から朝鮮へ帰る予定の使者を伏見城にいた徳川家康のところへ連れていきました。これで国交回復も近いと考えた義智でしたが、事はそう簡単には進みませんでした。

 

朝鮮の王宮では国交回復をすべきか様々な意見がでました。悩んだ国王・宣祖は国交回復の条件を日本に出すことにしました。

 

  1. 先の戦の時に朝鮮国王の墓を荒らした犯人を引き渡すこと
  2. 日本から先に謝罪の国書を出すこと
  3. 最後に捕虜の返還

 

捕虜の返還に応じることはできますが、他の条件は極めて難しいものでした。王の墓を荒らした犯人といっても戦の混乱の中のできごとでは探しようがありません。さらに、朝鮮出兵に関与しなかったという家康に謝罪文を書けと言えるはずがありません。このままでは交渉決裂です。

 

日朝貿易が中断して8年、収入が絶たれた対馬は存続の危機に瀕していました。そこで義智は朝鮮側が納得する内容で偽の国書を作ることにしました。

 

国書には前代の非を改めると書き、家康が先の戦を謝罪した形にしました。表には「日本国王 源家康」と署名し最後に偽の印を押しました。さらに、対馬藩の罪人の中から一人を選んで王の墓を荒らした犯人に仕立てあげました。

 

義智はこうして朝鮮が突きつけた条件をクリアしたのです。

 

国交回復 光と影

慶長12年3月、朝鮮の使節が対馬に到着。そこで義智は大きな問題に気づきました。一向が携えていた朝鮮の国書は「返事」として書かれていたのです。

 

朝鮮の国書は先日の家康名義の国書に対する返答として書かれていました。しかし、家康の国書は義智が作った偽物です。国書を書いた覚えのない家康が読めば、当然辻褄が合わないところが出てきます。そうなれば偽の国書を作ったことが露見するかもしれません。

 

そこで義智は朝鮮側の国書も偽造し、すりかえることにしました。

 

慶長12年6月29日、朝鮮の使節が将軍に謁見。国書は将軍に受理されました。国書を受け取った将軍は返事として自らの国書を朝鮮国王あてに送りました。義智の10年越しの悲願は国書偽造という大きな危険と引き換えに達成されたのです。

 

国交の回復とともに朝鮮と対馬の貿易も再開され、貿易は最大で年に20万両にも及ぶ利益を島にもたらしました。

 

宗義智は国交回復の8年後に亡くなりました。国書偽造の秘密は闇から闇に葬られたかに見えました。

 

ところが約30年後、2代目の藩主・宗義成の代になって国書偽造が発覚。それは対馬藩家老の柳川調興による密告でした。

 

当時、対馬藩では藩主・宗家と家老が対立していました。柳川は国書偽造を暴露して宗家の失脚を狙ったのです。

 

時の将軍・徳川家光は自ら尋問して調べることにしました。対馬藩主・宗義成と家老・柳川調興は江戸城に呼び出されました。義成の申し開きは苦しいもので、老中たちは宗家が偽造に関わった疑いは濃厚と見ていました。

 

しかし、国書偽造について宗家はおとがめなしとして引き続き朝鮮との外交役をつとめるよう命じられました。家康以来の日朝の信頼関係を維持するため、宗家の罪はとがめないというのが家光が下した結論だったのです。

 

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国書偽造 秘められた真実
~国境の島・対馬の憂鬱~

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