東京ローズ 太平洋戦争のラジオアイドル|歴史秘話ヒストリア

今から70年前の太平洋戦争のさなか、最前線で戦うアメリカ兵たちに大人気のアイドルがいました。その名は東京ローズ。東京ローズとは、ある女性DJに付けられたあだ名です。彼女は東京のスタジオからラジオでアメリカ兵お気に入りのジャズを届ける謎の女性でした。

 

 

謎のラジオアイドル 東京ローズ誕生!

昭和16年12月8日、真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争。アジアや太平洋を戦場に日本軍は連合国軍と激しい戦いを繰り広げました。

 

実は開戦と同時に心理戦も始まっていました。あの手この手で相手の戦意を失わせることが目的でした。心理戦で中心的な役割を果たしたのがラジオ。海の向こうまで自由自在にメッセージを飛ばすことができるラジオは、心理戦に最も適したメディアと考えられていました。

 

当時、ラジオ・トウキョウと呼ばれたNHK国際放送は開戦と同時に日本の主張や戦争の正当性を訴える宣伝放送、いわゆるプロパガンダ放送を開始。政府の指導のもと世界中に向けて16カ国語で放送を行っていました。

 

こうした中で最も効果を上げたのが「ゼロ・アワー」。東京ローズの番組です。番組は軽快な音楽と共に始まり、放送はアメリカ兵の憩いの時間を狙って行われました。

 

この番組の特徴は、半分以上が音楽コーナーだったこと。選曲はアメリカ兵に人気のジャズが中心でした。番組のウリは女性DJで前線の兵士に語りかける陽気なトークが評判でした。

 

番組は瞬く間に大人気に。兵士たちはこの女性に「東京ローズ」というあだ名をつけアイドル視するようになっていきました。

 

東京ローズの評判は遠くアメリカ本土にも届いていました。毎日放送を聞くうちにホームシックになる兵士も。東京ローズは無視できない影響をアメリカ軍に及ぼし始めていました。

 

終戦から半年後の昭和20年9月1日、アメリカの新聞に「東京ローズはロサンゼルス出身のアイバ・トグリと判明」と掲載されました。

 

東京ローズ 謎のアイドルの素顔

アイバ・トグリ

 

アイバは山梨から移住した両親のもと、日系アメリカ人2世として生まれました。ロサンゼルスで雑貨店を営む両親は、アイバを日本人ではなくアメリカ人として育てようとしました。成績優秀だったアイバは、地元の名門大学に進学し動物学を専攻しました。

 

1941年の夏、大学を卒業したばかりのアイバは両親に東京のおばさんのお見舞いに行って欲しいと頼まれました。帰りの船が出るまでの半年間、アイバはおばの家に住むことになりました。

 

日本に馴染めないまま4ヶ月経った頃、日本軍が真珠湾を攻撃。アメリカと戦争が始まりました。一刻も早くアメリカに帰らねばとアイバは引き揚げ船で日本脱出を試みましたが帰国は拒否されてしまいました。

 

実はこの頃、アメリカでは日系人は敵性市民とみなされ強制収容が始まっていたのです。日系人がスパイとして入国することを防ぐため、アメリカへの帰国は難しくなっていました。

 

一方、日本でも次第に激しくアメリカを敵視する風潮が強まりました。アイバはおばさんに迷惑がかかると思い、家を出て一人暮らしを始めました。しかし、日本語の読み書きすらおぼつかないこともあって、まともな仕事は見つかりませんでした。

 

そんな折り、ラジオ・トウキョウで英文タイピストに採用されました。当時のラジオ・トウキョウでは、アイバ以外にも帰国子女や日本に帰化した日系人の女性が数多く働いていました。英語が堪能な彼女たちは即戦力として海外向けのプロパガンダ放送を様々な面で支えていました。

 

とはいえ彼女たちは全員日本の国籍を持った日本人。アメリカ国籍を持ち続けたアイバは、ラジオ・トウキョウでも疎外感を味わいました。

 

1943年、アイバに運命の出会いが訪れました。スタジオに資料を持っていくように頼まれ行ってみると、そこには3人の外国人がいました。プロパガンダ放送を作るために軍の命令で連れてこられた捕虜たちです。

 

3人が担当していた番組は「ゼロ・アワー」捕虜たち自身が原稿を書き、選曲やアナウンスを行っていました。思いがけない場所で同胞と出会いアイバは感激しました。

 

その2ヵ月後、3人の捕虜のリーダーで元ラジオコメンテーターのチャールズ・カズンズがアイバを「ゼロ・アワー」のDJにスカウトしました。カズンズはこれまで自分たちが日本軍の戦果を馬鹿にした口調で読んだり、大本営発表を聞き取れないぐらいの早口で読んだりと放送を使って密かに日本軍に抵抗してきたことをアイバに打ち明けました。

 

この放送がアメリカ兵を勇気付けることになるのならとアイバはDJを引き受けました。アイバはアメリカ人としての誇りを胸に秘め、心理戦の最前線に身を投じたのです。

 

その後、アイバは日系人の新聞記者フィリップ・ダキノと結婚。ささやかな幸せを手に入れました。

 

東京ローズは反逆者!?

終戦から2週間、「ゼロ・アワー」がなくなったためアイバは無職になっていました。

 

そんなある日、アメリカの記者たちが独占インタビューに応じてくれれば2000ドルを支払うとアイバに持ちかけました。アイバは夫と共にホテルの一室で取材に応じ3日後、アイバはGHQから呼び出しを受けました。

 

 

そこには本物の東京ローズを一目見ようと大勢の記者や兵士たちが待ち構えていました。さらに、本物そっくりのラジオスタジオのセットも用意され、その場で記録映画の撮影が始まりました。

 

しかし、アメリカ本国の新聞には「反逆者 東京ローズ 裏切りの報酬は月100円」と掲載されてしまいました。それは「日本のプロパガンダ放送に協力した裏切り者の日系人が自ら名乗り出た」という悪意に満ちた内容でした。

 

すぐにアメリカではアイバへのバッシングが始まりました。中心になったのは戦争で息子を失った母親たちや、日系人の排斥運動をしていた活動家たちでした。世論の厳しい声におされてアイバは逮捕され巣鴨プリズンに収監されてしまいました。

 

数ヶ月間にわたるFBIの取り調べを受けたアイバは1948年、裁判の被告人としてアメリカに強制送還

 

裁判が行われたカリフォルニア州サンフランシスコは当時、全米で最も反日感情が強い土地と言われていました。さらに、裁判の行方を握る陪審員は12人全員が白人。アイバは極めて不利な条件で裁かれることになりました。

 

アイバを有罪に追い込むため検察が集めた証人は約100人。裁判費用はアメリカ建国史上最高の50万ドル以上が投じられました。アメリカ社会は総力を上げて反逆者アイバを断罪しようとしたのです。

 

1949年7月5日に裁判は始まりました。罪名は国家への裏切り行為、反逆罪です。アイバは国家に反逆する意思など全くなかったことを主張。しかし、検察側は仮に反逆の意思がなくても放送に参加したこと自体が問題であると主張しました。

 

9月29日、アイバには禁固10年罰金1万ドルが課せられました。必死に守り続けたアメリカ市民権も剥奪されました。

 

アイバを待っていたのは、愛する祖国の手で反逆者の烙印を押されるという想像すら出来なかった悲しい結末でした。

 

刑務所に収監されたアイバは、6年2ヵ月後に模範囚として釈放されました。その後は家族の暮らすシカゴでひっそりと余生を送り、自ら東京ローズのことを語ろうとはしませんでした。

 

アイバが日本で苦難の日々を過ごしていた頃、アメリカにいたアイバの家族は強制収容所に送られていました。当時12万人もの日系人が過酷な収容生活を強いられました。

 

日系人受難の時代から約20年後、アメリカ社会では黒人などに正当な権利を保障することを求める公民権運動が勢いを増しました。それと同時に戦争中の日系人への差別や迫害を見直す動きも始まりました。アメリカ政府は日系人の強制収容は間違いであったと公式に認め、アイバの反逆罪裁判も再検証されることになりました。

 

1977年、アメリカ大統領はアイバの特赦を決定。60歳のアイバは27年ぶりにアメリカ市民権を回復し、一人のアメリカ人へと戻りました。そして2006年1月、アイバは退役軍人会から表彰を受けました。

 

この表彰の8ヵ月後、アイバ・トグリは90歳でこの世を去りました。

 

「歴史秘話ヒストリア」
裏切りの声は甘く悲しく
~太平洋戦争のラジオアイドル 東京ローズ~

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