夢の丘は危険地帯だった ~土砂災害 広島からの警告~|NHKスペシャル

NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で夢の丘は危険地帯だった~土砂災害 広島からの警告~が放送されました。昭和40年に見晴らしが良く手頃な価格で売り出された山裾の住宅地。そこは人々のマイホームの夢を叶えることが出来た夢の丘でした。この丘を2014年8月、1時間に100mlを超える豪雨が襲いました。谷を下った土石流が麓にあった家々を飲み込み74人もの命が奪われました。そこは広島市の中心部に近い住宅地。全国に広島ショックと呼ばれる衝撃が広がっていきました。

 

なぜ被害は拡大したのか

京都大学防災研究所の竹林洋史さんは、今回これほど多くの犠牲者が出たのか調査しています。土石流は広島市の中心部から車で約30分の山の周辺107ヶ所で発生しました。安佐南区八木は最も多い52人の犠牲者が出ました。土石流に襲われたのは山裾に密集していた住宅地です。竹林さんは最も被害が大きかった地区を調べました。建物の壊れ方や流れた土砂の高さを調査。さらに地形のデータを組み合わせて土石流がどのように住宅地を襲ったかをシミュレーションしました。それによると、山から流れ出た土石流は一直線に住宅地に侵入。その後、少なくとも2回流れ被害は最も上の住宅から500m離れた所にまで及んでいました。猛烈な雨が引き金となり山の中腹で発生した土石流の時速は最大37km。発生から47秒後、土石流が住宅地に到達。高さ1.8mだった土石流は幅の狭い道路に押し込められたことで3.6mにまで上昇。押し流された家や瓦礫が、さらに流れの下にある家を破壊。こうして被害は住宅地の8万㎡に広がったのです。

 

なぜ危険な山裾に家が

妹を失った古田美恵子さんは、なぜここに家が建てられていたのか疑問を持っています。妹の高野千津子さん(60歳)は夫と一緒に亡くなりました。夫婦で働き続け30歳の時に初めて手に入れたマイホームでしたが、千津子さんの家があった場所は土石流の通り道となり跡形もなくなっていました。古田さんは妹が家を買った時から気になることがあったと言います。千津子さんの家は山裾に開発された住宅地の中にありましたが、家の脇を幅1mほどの水路が通っていたからです。不安は現実となり、水路に沿って大量の土砂が流れ込みました。家は元々あった場所から50m下まで流されていました。なぜこの場所に住宅地が開発されたのでしょうか?昭和37年、千津子さんの家があった場所は畑の上に広がる天井林と呼ばれる急峻な松林でした。それが昭和41年には住宅地が造成されました。町内会の記録によると、当時から住民たちは土地の異変について語り合っていました。大雨が降ると土砂が家の敷地に流れ込むことがあったと言うのです。この話し合いに参加していた山本強さんは、昭和40年に土地を購入した時は危険だとは思わなかったそうです。購入の決め手となったのは価格。1坪5500~9000円。山側の土地ほど安くなっていました。山本さんは50坪の土地を30万円(現在でいう120万円)で購入。家に住み始めた後、近所で小さな土砂崩れが起きましたが自分の土地は大丈夫だと言い聞かせたと言います。この頃、八木では開発が相次ぎ山裾は大きく切り開かれていきました。

 

当時、時代は高度経済成長期で地方から都市部へ人口流入が続いていました。大企業が拠点を置く広島市では人口が2倍以上に増え、住宅地が不足。そのため山を切り開いて行う住宅地の開発が進みました。当時、八木で20軒以上の建売住宅を販売した不動産業者の柴崎希徳さんによると、住宅ブームによる地価の高騰が開発をさらに山の上へと進めていったと言います。止まることなく進む山裾の開発でしたが、昭和44年に転機が訪れました。国が無秩序な開発を防ぐための法律「都市計画法」を施行し、住宅地の開発にルールをもうけたのです。都市計画法では都市の中で積極的に市街化を進める市街化区域と抑制する市街化調整区域をもうけ線引きをすることにしました。線引きは将来の人口の増え方やインフラ整備、災害の恐れなどを考慮しながら行政の判断で引くことにされました。しかし、被災地には法律が出来た後も住宅の建設が止まらなかった場所がありました。その一つが昭和41年にはまだ山林だった小原山地区です。法律施行後、山に食い込むように開発が進み、最近では31世帯が暮らすまでになっていました。今回の災害で多くの住宅が跡形もなく流されました。なぜこの地区に家を建てることが許されたのでしょうか?

 

元広島県都市計画化の進藤和丸さんによると、こうした場所の危険を当時から把握していたそうです。しかし不動産業者や地主からの反対の声が上がりました。線引きをめぐっては行政は不動産業者や地主などの意見を聞く機会をもうけるよう法律で定められています。結局、進藤さんたちは山の上へと伸びる線引きを余儀なくされ、そこに家が立ち並んでいったのです。小原山地区では住民の約3分の1にあたる23人が亡くなりました。

 

豪雨で高まるリスク

広島大学大学院の海堀正博さんが注目しているのは、今回広島で局地的に降った1時間に100mlを超える豪雨です。この豪雨が通常とは異なるメカニズムで土石流を発生させたと考えています。海堀さんは標高430mの所で剥き出しになった岩盤に複数の割れ目を発見。これはパイピング崩壊という現象が起きた跡だと言います。通常、土石流は山に雨が降り続き、溜まった水の重みで表土が崩れ落ちて起こります。ところが今回、短時間に大量に降った雨は表土だけでなく岩盤の亀裂にまで入り込みました。この状態が続いたため岩盤内の水圧が上昇。水は岩盤を突き破り猛烈な勢いで流れ出しました。これがパイピング崩壊です。今回被害を拡大させた大量の巨石は、パイピング崩壊などで勢いを増した水によってより遠くまで流されたと見られています。パイピング崩壊を伴う土砂災害は2013年10月の伊豆大島、2011年の奈良・十津川村でも起きていたことが分かっています。いずれも局地的に降った豪雨が原因でした。

 

生かされなかった教訓

74人が亡くなった広島の土砂災害ですが、実は警鐘を鳴らす出来事が15年前に起きていました。平成11年、広島県内の新興住宅地を襲った土砂災害です。154棟の家屋が全壊し、32人が犠牲となりました。翌年、国は土砂災害から国民の命を守ることを明確に打ち出した「土砂災害防止法」を制定。この法律では都道府県が危険箇所を改めて調査し、危険性が高いと判断した場所を警戒区域に指定します。被害の恐れがある地域はイエローゾーンとなり避難体制の整備が求められます。さらに生命に著しい危険が及ぶおそれがある地域はレッドゾーンに指定。建物を建てるには特別な許可が必要で、すでに建っている場合は移転が勧告されることもあります。ところが今回、この法律が十分にいかされていなかったことが分かってきました。犠牲者が出た場所は1つの地区を除き警戒区域に指定されていませんでした。さらに警戒区域指定のための調査を終えていたにも関わらず結果を住民に伝えていませんでした。広島県土木局の松永悟さんによると、広島市と住民説明会を具体的に打ち合わせしていこうという段階で災害が発生してしまったのだと言います。警戒区域の調査開始から指定を行って結果を伝えるまでに少なくとも1年、場合によっては2~3年かかります。特に時間がかかるのが住民への説明会をもうけて納得してもらった上で指定をするプロセスです。

 

元国土交通省の秦耕二さんは広島で32人の犠牲者が出た土砂災害の翌年に広島県に派遣されました。警戒区域の指定を迅速に進め、全国のモデルケースとなることを期待されたのです。しかし、指定は思うように進みませんでした。最初の3年間で指定できたのは3万2000の土砂災害危険箇所のうち13箇所にとどまりました。結局、秦さんは妥協し指定を優先したのは過去に災害が起きた地区など住民が受け入れやすい地域。一方、住民の理解を得るのが難しそうな地域は後回しにしたと言います。住民に危険を知らせ避難を促すための警戒区域ですが、命を守るという法律の精神はいかされず再び犠牲者が出てしまったのです。広島と同じように調査を終えていながら指定に踏み切っていない所が全国に7000ヶ所以上あると言います。

 

動き出した行政・住民

9月下旬、広島県は住民たちを前に警戒区域に関する大きな方針転換を打ち出しました。これまで調査狩猟後、住民説明会を経て行っていた指定と公表ですが、まずは公表を優先することに決めたのです。今回の災害を受けて国も土砂災害防止法の改正に向け動き出しました。調査結果を速やかに公表するよう義務づけることにしたのです。住民たちの意識も変わり始めています。2人が犠牲となった地区では被害があった場所を隅々まで見回る活動を始めました。潜んでいた危険に一つ一つ向き合っています。自分たちの手で新たな防災マップや避難マニュアルを作成しようと動き始めています。