ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」|ららら♪クラシック

鍵盤の端から端までを左手一本で縦横無尽に移動しながら演奏する左手のためのピアノ協奏曲。作曲したのは20世紀初頭フランスで活躍したラヴェル。きっかけは戦争で右手を失ったウィトゲンシュタインというピアニストからの依頼でした。

モーリス・ラヴェル

ラヴェルはすでに取り掛かっていた作品を中断してまで「左手のためのピアノ協奏曲」の作曲に熱中したと言います。そこにはラヴェル自身の戦争体験が深く関わっていました。

戦争がきっかけで生まれた名曲

1914年に勃発した第一次世界大戦。2000万人以上の負傷者を出したと言われています。その中に戦地で傷をおい右手を失った一人のピアニストがいました。パウル・ウィトゲンシュタインです。

ウィトゲンシュタインはピアニストとして活動を続けるために、当時人気作曲家だったラヴェルに左手だけで弾けるピアノ協奏曲を依頼しました。この珍しい依頼はラヴェルの作曲家魂に火をつけました。

左手だけで演奏するとはいっても、両手で弾くリストの協奏曲のように聞こえなければならない。

(モーリス・ラヴェル)

ところが、ラヴェルが作品に高い芸術性を求めた結果、2人の間にトラブルが発生しました。

ラヴェルの自宅で初めてウィトゲンシュタインに曲を披露した日のこと。そこで見たのは両手で演奏するラヴェルの姿でした。曲はとても難しく左手だけではとても弾けないと思われました。

そこでウィトゲンシュタインは自分で勝手に編曲して演奏することにしたのです。それを聞いたラヴェルは怒りました。「演奏者は作曲家の奴隷だ」という厳しい言葉を浴びせたとも伝わっています。

ウィトゲンシュタインは悔しかったのか、その後猛練習。楽譜通りに弾けるようになるにつれ、ラヴェルの作品の素晴らしさを理解していきました。

1933年、パリでの初演で指揮をしたのはラヴェル本人でした。この演奏会の成功で「左手のためのピアノ協奏曲」は世界的な評価を得たのです。

ラヴェルの戦争体験と新時代への希望

ウィトゲンシュタインが第一次世界大戦で戦っていた同じ頃、ラヴェルも39歳という高齢ながらトラック運転手として参戦。危険な前線にも赴き、戦場の悲惨さを目の当たりにしていました。

さらに1917年に最愛の母を亡くすという悲劇が襲いました。ラヴェルはパリを離れ、郊外に一軒家を購入し隠居生活のような暮らしを続けるようになりました。

作曲家ラヴェル復活の転機となったのは1928年のアメリカへの演奏旅行でした。4か月に渡って各地で熱狂的な歓迎を受けました。とりわけラヴェルを魅了したのは本場のジャズでした。新時代を象徴するアメリカの音楽に直接触れたことで、大きな刺激を受けたのです。

ラヴェルは第一次世界大戦の時に母親を亡くしていますし、自分自身も参戦しています。そういう苦悩、つらい思い出、失ったものに対する空虚感みたいなものがソロの部分にとても表れている気がするんです。ただ、その後に突然変異するようにジャズの部分が表れてくるんです。ジャズ的な要素は1920年代以降にアメリカの文化が入ってくる狂乱の時代がありますけれど、2つの要素がラヴェルの中に入っていて同時に出てきているのがこの曲であり、その融合の具合が他の作曲家にはないラヴェルならではの良さかなと、素晴らしさかなと思います。

(安川智子さん)

「ららら♪クラシック」
ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」
~戦場への哀悼・革新の音楽~

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