井伊直弼 独裁者か?英傑か?|ザ・プロファイラー

不遇の青年時代

井伊直弼(いいなおすけ)は1815年、彦根藩11代藩主・直中の子として生まれました。名門に生まれたとはいえ、直弼は十四男。将来、彦根藩主になる見込みはありませんでした。それでも城内にある御殿で何不自由なく育ちました。

井伊直弼

17歳の時、父が亡くなると境遇が一変。末っ子の弟と二人、城外の屋敷に移され質素な暮らしを強いられることに。というのも、井伊家では世継ぎ以外は他の大名家の養子になるものとされ、それができない場合、わずかな宛行扶持しか貰えないことになっていたのです。

そんな中、井伊直弼にも20歳の時、養子縁組の話が舞い込みました。しかし、待っていたのは厳しい現実でした。なんと養子になったのは末っ子の弟。7万石の世継ぎとなった弟、一方の直弼は300俵の宛行扶持で細々と暮らし続けるしかありませんでした。

そんな井伊直弼が自らの決意をつづった言葉があります。

世を厭うにもあらず
望み願ふこともあらず
ただうもれ木の籠り居て
なすべき業をなさまし

世の中を恨んだり儚い望みを抱いたりせず、ひたすらうもれ木のように籠って自分がなすべきわざをやっていこうというのです。

なすべき業は幅広い分野に及びました。武芸においては創意工夫を重ね、居合の新派を創立。また、焼き物を手掛け、能や狂言においても自ら作品を作りました。そして、最も力を入れたのが茶の湯。業や姿形を重視する風潮が強い中、禅に通じた直弼は内なる心を重視。「一期一会」の言葉を残しました。

埋もれ木のような生活を続ける中、柳の木に深い愛着を抱くようになりました。和歌の題材に用いたり、自らの雅号も「柳王舎(やなぎわのや)」と名乗るほどに。

井伊直弼は25歳頃、村山たかと出会いました。彼女は6歳年上で、もとは祇園の芸妓でした。井伊直弼が村山たかに送ったラブレターにはある歌が記されていました。

名もたかき
今宵の月は
みちながら

君しをらねば
事かけて見ゆ

今宵の月は名月なのに、あなたがいないので欠けているように見える。

埋木から藩主への大出世

埋木のように暮らし始めて15年、32歳の時に大きな転機が訪れました。藩主・直亮の世継ぎとなっていた11男が病で亡くなったのです。すでに他の兄弟が養子に出ていたため、一人残った井伊直弼が彦根藩の世継ぎとなったのです。

宛行扶持300俵の貧しい暮らしから、30万石の世継ぎへ大出世でした。ついに苦労が報われた井伊直弼は涙をこらえきれませんでした。

この度の昇進は尋常なことではない。実に不思議なことだ。

世継ぎとなった井伊直弼は、彦根藩を代表し江戸で暮らすことになりました。ところが、相変わらずの貧乏生活を強いられました。藩主である兄・直亮に快く思われておらず十分な金を貰うことができなかったのです。

徳川家11代将軍・家斉の法事のさいには、着るものが用意できず仮病で欠席するほどでした。それでも井伊直弼は物事の筋を通す人間として、幕府内で徐々に評価を高めていきました。

この頃、後の井伊直弼の決断に大きな影響を及ぼす出来事がありました。日本の近海に出没する外国艦船が増えてきたことをうけ、彦根藩は三浦半島の沿岸警備を担当。

しかし、その実態を知った井伊直弼は衝撃を受けました。天下太平の世が250年にわたって続く中、武士たちの士気は下がり警備体制もお粗末なものになっていたのです。しかし、世継ぎという立場の井伊直弼にはどうすることもできませんでした。

36歳の時、藩主だった兄が亡くなり、井伊直弼は13代藩主となりました。その井伊直弼を支えたのが儒学者でもあった家臣の中川禄郎です。中川の教えをもとに井伊直弼は家臣や人々の声に耳を傾けていきました。

命の限り家中・領内の者どもを大切にする
私は士民を頼り
士民は私を頼る
上と下が水と魚のように一体となり
歴代藩主の栄名を汚さないようにしたい

井伊直弼はいくつかの前例にならい、前の藩主が残したお金を人々に分け与えました。その額15万両。彦根藩の1年分の収入にあたりました。また、自ら領内をくまなく視察。生活困窮者には食べ物を与え、病気の者には同行する医師の診察を受けさせました。

恵マデハ アルベキモノカ 道ノベニ 迎ル民ノ シタフ誠ニ
(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を慕う誠の心を思えば)

この井伊直弼の歌に感激したのが吉田松陰です。

人君之歌と一唱三嘆 感涙ニむせび
(この歌は君主としてあるべき人の歌である。一度声に出して読めば三度ため息がでる。そして感涙にむせぶ)

開国への葛藤

彦根藩主となって3年、39歳の時に井伊直弼は黒船来航と向き合うことになりました。日本に開国を求めるアメリカ。この時、井伊直弼は開国はやむおえないという方針を打ち出しました。

黒船が現れたのは彦根藩が警備を担当していた三浦半島。その軍事力のすさまじさは井伊直弼にも伝えられました。開国を求めるアメリカにどう対処するか、井伊直弼は家臣たちに意見を求めました。その多くが開国に反対する中、開国やむなしと主張したのが儒学者でもある中川禄郎でした。沿岸警備のお粗末さを痛感していた井伊直弼。今戦っても勝ち目はないと心を決めました。

しばらくは戦争を避け貿易を行うべきである。勇威を海外に振るうことができるようになれば内外共に充実しかえって皇国安泰になるはずである。

しかし、他の大名たちの同意を得るのは容易ではありませんでした。特に強硬に反対したのが徳川斉昭でした。

外国と戦うことを決意の上、武家はもちろん農民・町人にも覚悟を求め日本の心力を一つにすべきである。

大きな影響力を持った斉昭は敵にまわすと恐ろしい存在でした。

恐ろしさのあまり薄氷を踏む思いである。考えていたよりも難しい事態となりこの先どうなるか心配である。水戸殿ににらまれているのでどんな災難が待ちうけているかわかったものではない。

結論が出ない中、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが来日。さらに強い姿勢で開国を迫ってきました。

その背景にはアジアの植民地をめぐる欧米列強の争いがありました。イギリス・フランスが清との戦争に勝利したことをうけ、アジアでの拠点確保を目指すアメリカは焦りを募らせていたのです。

開国やむなしと考える大名は増えていましたが、徳川斉昭は反対を続けました。そこで井伊直弼は反対派を説得するため、開国を認める勅許(天皇の許可)を得ようとしました。勅許は得られるとみていた井伊直弼ですが、天皇からの返事は意外なものでした。

御三家以下 諸大名で再度衆議した上で改めて言上するように

事態が緊迫する中、井伊直弼は大老に就任。大老になったとはいえ、井伊直弼は独断で物事を進めようとはしませんでした。ひたすら、反対派の説得にあたりました。

万一、外国の圧力に押され鎖国をやめるというのであっては朝廷・徳川家に対して忠義を尽くしたとは言い難く国の行く末に関わる重大ごとである

(徳川斉昭)

そんな中、ハリスがこれ以上待てないと忠告してきました。井伊直弼は苦渋の決断を下し、アメリカとの交渉にあたる部下にこう告げました。

なるたけ引き延ばせ。もし延ばせなかったらその節は致し方なし。

結局、勅許も得られず反対派の説得もできないまま日米修好通商条約が成立しました。

もし外国と戦って敗北し侵略されることになればこれ以上の国辱はない。しかしながら、勅許を待たずに条約を結ぶという重罪は甘んじて自分一人で受ける決意である。

(公用方秘録より)

ところが近年、この言葉が後に改竄されたものであることが判明しました。公用方秘録の原文が公開されたのです。条約締結の夜に、側近と交わしたやり取りで井伊直弼が本音を漏らしていました。

側近「諸大名の意見をまとめずに調印したとなると、天皇の逆鱗に触れることになります。」

井伊直弼「いかにもそこには考えが及ばなかった。無念のいたり。この上は大老を辞職するより致し方なし。」

安政の大獄を断行

条約締結から3か月、井伊直弼は安政の大獄にのりだしました。この大弾圧は後に自らの死を招くことに繋がりました。

開国問題で揺れている頃、反対する徳川斉昭と別の問題でも対立することになりました。将軍の跡継ぎをめぐる将軍継嗣問題です。

時の将軍・徳川家定は病弱で子供もいませんでした。そこで、後継者として井伊直弼が推したのが家定に近い血筋であった紀州藩の徳川慶福。一方の斉昭は、自分の息子で一橋家の養子としていた一橋慶喜を次の将軍にすえようと画策していました。

この争いに勝つため井伊直弼がうった手が、一橋慶喜を支持する役人を徹底的に左遷することでした。中には井伊直弼の命でアメリカとの交渉にあたっていた優秀な役人も多く含まれていました。

結局、この争いは井伊直弼が大老に就任したことで決着。後継者となったのは紀州藩の徳川慶福でした。

しかし、井伊直弼の基盤を揺るがす「戊午の密勅」が。天皇が井伊直弼が独断でアメリカと条約を結んだことを非難するものでした。

幕府の独断で条約調印を行ったことは軽率な取り計らいである。これからは御三家をはじめ諸大名で衆議して事態に当たるように。

(戊午の密勅)

井伊直弼が衝撃を受けたのは内容もさることながら、この書状が対立する斉昭がいる水戸藩のもとへ先に送られたことでした。

幕藩体制のもとでは朝廷の意向は幕府が受け止め、それを各藩に伝達する決まりとなっていました。そのルールが破られるのは前代未聞でした。井伊直弼はこのままでは幕府の権威が揺るぎかねないと強い危機感を抱きました。

天皇の威光をかさに着て水戸が権威をつけようと企てるのを許せば国家の争乱を招くことになる。

井伊直弼は戊午の密勅を出すよう天皇に働きかけた人物たちを徹底的に弾圧することに。安政の大獄が始まりました。

関係者を探しだすにあたり井伊直弼の意向をうけ京都で暗躍したのが、かつての恋人である村山たかです。井伊直弼が藩主になったのを機に別れていたものの、影で井伊直弼を支えていました。

その後、安政の大獄における弾圧は、密勅の関係者以外にも拡大。かつて井伊直弼を称賛した吉田松陰も犠牲となりました。この大弾圧により井伊直弼は「赤鬼」と呼ばれるようになりました。

大弾圧の果てに…

こうした井伊直弼の動きに水戸藩の武士たちは激怒。この時、徳川斉昭が思わぬ行動に出ました。怒る藩士たちを抑え込んだのです。しかし、この斉昭の決断に不満を持つ者たちは、水戸藩を脱藩し江戸へと向かいました。

1860年3月24日、江戸は季節外れの大雪にみまわれていました。桜田門から江戸城に入ろうとしていた井伊直弼は、水戸の浪士たちに襲われました。桜田門外の変です。

実はこの日、井伊直弼のもとには命の危険を知らせる手紙が投げ込まれていました。しかし、それを誰にも告げず警備の人数を増やすこともありませんでした。

そもそも従士の数は幕府の定めるところであって大老自らこれを破っては他の大名に示しがつかない。人にはそれぞれ天命があり刺客が余を倒そうとすれば、たとえいかほど用心しても隙は生まれるだろう。

季節外れの雪の中、桜田門外で46年の生涯を閉じた井伊直弼。死の前日に詠んだ歌が残っています。

咲きかけし たけき心の 花ふさは ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

道半ばではあるが、国のためという必死な思いはいつの日か人々に伝わることだろう。

桜田門外の変により、幕府の権威は大きく失墜。薩摩、長州と中心とする討幕の動きが加速しました。将軍・徳川慶喜は大政奉還によって政治の実権を朝廷に返還。260年に渡って井伊家が支え続けてきた徳川幕府の時代は終わりました。

そして井伊直弼は明治新政府から悪人のレッテルをはられることになりました。しかし、明治時代の終わりには井伊直弼を再評価する動きも。

直弼の決断により開港した横浜。その開港50年を記念して井伊直弼の銅像が建てられたのです。

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
独裁者か?英傑か? 大老 井伊直弼

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