徳川綱吉 ~犬公方の知られざる思い~|ザ・プロファイラー

子供の健やかな成長を願う七五三は、もともとは貴族の行事でした。それが庶民の間に広がったのは、徳川綱吉が子供のために行ったのがきっかけだったと言います。徳川綱吉が庶民から慕われていたことを示すエピソードです。

実際、徳川綱吉の治世の初期は「天和の治」と称賛されるほど庶民を第一に考えた善政が行われていました。

徳川綱吉

培われた庶民へのまなざし

徳川綱吉は1646年(天保3年)に3代将軍・徳川家光の四男として生まれました。将軍になる可能性はほとんどない立場でしたが、兄弟の中でも抜きんでて利発な子でした。しかし、父・家光は将来に若干の懸念を抱いていました。

才能に任せて心のままに行動すれば思いのほか災いを引き起こすかもしれない。

当時、武士が学ぶべきは武道でしたが、家光はあえて学問に励むよう綱吉に命じました。

私は幼い頃から武芸ばかりしていて学問を修めなかったことが悔やまれる。この子は非常に賢いから第一に学問に励むように。

綱吉が5歳の時、父・家光が亡くなりました。そして、兄の徳川家綱が11歳で4代将軍に就任。この時、三男と五男はすでに亡くなっており、次男の綱重と四男の綱吉はそれぞれ15万石の大名となりました。

綱吉は母の影響を強く受けて育ちました。母・桂昌院は家光の側室の一人。もともとは京都の青果店の娘で玉という名前でした。一般の庶民が将軍に見初められたことから「玉の輿」という言葉の由来になったと言われる女性です。

桂昌院

当時、将軍家の人は庶民の暮らしの実情にはうとかったと言います。これに対し綱吉は、母から武家がいかに優遇され、庶民がいかに貧しい暮らしを送っているか教えられながら育ったと言います。

さらに、綱吉は母の影響で仏教の教えを大切にし、能を嗜むなど文化の面にも強い関心をしめしました。一方で武芸にはほとんど興味を示しませんでした。

ある日、4代将軍の家綱が弟の綱重と綱吉に馬術を磨くようにと馬を贈りました。乗馬の練習に励む綱重。一方、綱吉は馬の絵を描いてばかりいました。

18歳の時、綱吉は公家の娘と結婚。しかし、子宝には恵まれませんでした。31歳の時、側室のお伝が長女・鶴姫を出産。その2年後、お伝が長男を生みました。綱吉は自分自身の幼名である徳松と命名しました。

この頃、綱吉を取り巻く環境は大きく変わりつつありました。兄の綱重が急死。4代将軍の家綱には子供がいなかったため、綱吉が次期将軍の最有力候補となったのです。

しかし、それに異を唱えたのが大老の酒井忠清。病気がちだった家綱のもとで実質的な権力を握っていました。家綱の死後も自らが権力をふるい続けたいと考えた酒井忠清は、次期将軍に自分の息がかかった皇族を擁立しようと画策。そして、綱吉をこう批評しました。

天下を治めさせたもうべき御器量なし

しかし、老中の堀田正俊は異議を唱えました。

正しき血縁者である綱吉様がいらっしゃるではないか

結局、綱吉は将軍の後継者として認められることに。その後まもなく家綱が死去。綱吉は5代将軍となりました。この時34歳。

綱吉は自分の就任に反対した大老・酒井忠清を病気を理由に無理やり引退させました。そして、自分の味方をした老中・堀田正俊を大老に昇格させました。

庶民のための政治を実現

幼い頃から学問を学んだ綱吉。当時、その中心となっていたのが儒学でした。綱吉は儒学の古典の中に自分の理想を見出しました。それは、幕府を頂点に各藩の大名が領民を統治していた幕藩体制ではなく、慈悲深い絶対君主が直接全ての国民を統治し、その幸せに責任を持つというものでした。

この理想の実現のため最初に手をつけたのが、悪代官を根絶することでした。当時、人々が納めた年貢を横領するなど不正を働く代官が少なくありませんでした。

そこで、綱吉は大老・堀田正俊の名で「七か条の訓示」を全国の代官たちに送り付けました。

民は国の基本である。代官たちは常に民の辛さや苦しさを知り決して民が飢えることのないようにせよ。

綱吉は不正を行った代官を免職に。切腹を命じることさえありました。

大名にも厳しい姿勢でのぞみました。綱吉が取り潰した大名は46。他の将軍の時代を遥かに上回ります。身内である徳川一門でさえ例外ではありませんでした。

一方で、綱吉は庶民の負担を軽減することに力を入れました。父・家光が作った巨大船・安宅丸は維持費に莫大な費用がかかると知り廃棄。日光東照宮への参拝も費用がかかりすぎるとして取りやめることに。そして、鷹狩りも廃止しました。鷹狩りは支配者だけに認められたもので、権力の象徴ともいえる重要な儀式でした。しかし、その準備のために周辺の住民は多大な負担を強いられていました。

次々と先例を無視する綱吉に周囲からは不満の声が。しかし、綱吉は…

自分は普通ではない状況の中で将軍職を継承した。よって徳川の前例に従う必要などは感じていない。

綱吉はさらに特権階級となっていた武士の意識を変えようと試みました。正月の恒例行事を「兵馬初め」から儒学の書物を読む「読書初め」に変更。家臣への褒美も自らが儒学の講義を行うというものにしました。

将軍になって3年、綱吉に思わぬ不幸が襲いました。徳松が4歳で亡くなったのです。さらに、翌年には大老の堀田正俊が江戸城で若年寄に刺殺されてしまいました。この事件は、その後の綱吉の政治に大きな影響を及ぼすことになりました。

従来、老中や若年寄が仕事をする部屋は将軍がいる御座所のすぐ隣にありました。しかし、この部屋で堀田正俊が殺された事から御座所から遠い場所に移されることに。そこで双方を繋ぐ連絡役が必要となりました。側用人です。

綱吉は側用人を介することで、自分の考えを老中たちに一方的に命じるなど独裁的な政治を行いやすくなりました。さらに、綱吉は側用人に身分に関わらず自分が選んだ優秀な人材を登用。従来、重要な役職は世襲となっていましたが能力主義を導入したのです。ここにも生まれより学識を重視する儒学の教えが反映されていました。

しかし、側用人の仕事は過酷でした。綱吉は朝早くから夜遅くまで政務に励んだため、側用人もひたすら仕事に追われたのです。結局、多くの者が体を壊し辞めていきました。

そんな中、綱吉の期待にこたえた側用人が柳沢吉保です。柳沢は500石の武士にすぎませんでしたが、後に15万石の大名へと出世。綱吉が柳沢に贈った自筆の書があります。そこには「誠実」と書かれています。

人はただまこと(誠・実)の二字を忘れずば幾千代までも栄ゆるなりけり

綱吉はより良い社会を実現するため、自分自身にも部下にも過酷な日々を強いたのでした。

殺伐とした世の変革に挑む

当時の社会には、戦国時代の殺伐とした雰囲気がまだ色濃く残っていました。武家には切り捨て御免が認められ、刀の試し切りのために何の罪もない庶民が殺されていました。また、「火事とけんかは江戸の華」と言われるほど庶民の気性も荒かったと言います。さらに、生活苦から子供や病人、年寄りを捨てるケースも後を絶ちませんでした。

庶民の幸せを実現しようとする綱吉は、こうした殺伐とした社会の変革に乗り出しました。

残酷さや心意気をよしとする戦国時代の古い生き方には無慈悲な行いが多く人の本来の道にそむく

しかし、理想の社会人の実現に燃える綱吉は、人々の日常をも厳しく統制するようになりました。

❶華美な服装の禁止

綱吉自身、模範を示すため古く汚れた衣服を身にまとい続けました。

❷肉食の禁止

戦国時代の武将たちが好んだことで広まった肉食の習慣を綱吉は嫌いました。

❸飲酒の抑制

庶民にも酒が手に入るようになり、それにともない酔っ払いによる犯罪が増えていました。

いつしか、庶民のための政策のはずが庶民のささやかな楽しみを奪うことになりました。

「生類憐みの令」の理想と現実

将軍となって5年目に本格的に打ち出したのが「生類憐みの令」です。実は、生類憐みの令は一つの法令ではなく、その後24年にわたって次々と出された130を超える法令の総称です。その対象も犬、猫、馬、牛、鳥、魚、虫などあらゆる生き物に及びました。

犬に関する法令が多いですが、理由は当時の江戸の状況にありました。街中を野良犬がうろつき、捨て子を食べたり通行人を襲ったりしていました。殺伐とした世の中を変えていくために野良犬対策は真っ先に取り組むべき課題だったのです。しかし、ここでも綱吉はやり方を失敗しました。

「生類憐みの令」の最大の狙いは、人々に慈悲の心を植え付けること。しかし、なかなか成果が上がらないことに苛立った綱吉は、違反者に厳しい罰則をかすようになりました。ついには犬を殺したことで切腹させられる者も。その結果、人々は犬に関わることを恐れるようになり逆に野良犬が急増する事態に。

やむなく綱吉は東京・中野に犬屋敷を建設。東京ドーム20個分もの敷地に10万匹もの野良犬が運び込まれました。犬たちに与えられる食事は1日3合の米に味噌、魚など。費用は幕府の年間予算の8分の1に及びました。その負担は庶民にのしかかることになり、綱吉に対する不満が高まっていきました。

生類憐みの令
  • 馬に重い荷物を積んだりしないこと
  • 金魚は飼ってもよいが飼育数を正確に報告すること
  • 子供、老人、病人を捨てることは禁止。そして捨てられた子供、老人、病人を見つけたら役人が保護すること
  • 飼い犬はすべて毛色を記載し飼い主を登録すること
  • ケンカをしている犬を見つけたら仲裁すること

犬のケンカの仲裁の仕方

  1. ケンカをしている犬がいたら間に入ること
  2. 「犬わけ水」をかけること。ただし犬に直接かからないようなるべく周りにかける
  3. 水を背中にかけること。ただし目や耳にかからないよう用心する

殺伐とした空気を変える

「生類憐みの令」により人々の反感を買った綱吉ですが、30年近くに及んだ治世の中で殺伐とした時代の空気を変えていきました。

綱吉の時代に花開いた元禄文化。日本史上初めての町人による文化です。歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、俳句、天文学や古典研究も発展しました。その中に綱吉がいかに時代の空気を変えたを示すものがあります。

浮世草子の作者・井原西鶴の作品です。綱吉が将軍になって間もない頃の作品「好色一代男」ではこう書かれています。

その子を六角堂のそこへ置き去りにして帰る

恋人との間に生まれた子を捨てることに罪を感じていません。ところが、10年後に発表した「世間胸算用」ではこう書かれています。

捨てるのはむごいことなので、ひたすらお頼みします。

子供を捨てることは罪だという人々の意識が、色濃く反映されています。

殺伐とした時代の空気を変えた綱吉ですが、江戸幕府の公式記録である「徳川実紀」では綱吉の政治が決して仰ぎ慕うようなものではなかったとされ、綱吉は無能な君主として語り継がれることになりました。

生類憐みの令の失敗があったとはいえ、なぜここまで酷評されることになったのでしょうか?

忠臣蔵の思わぬ波紋

55歳の時、綱吉は人々からさらに反感を買うことになる出来事に直面しました。後に忠臣蔵として知られる一連の騒動です。

江戸城中で赤穂藩主の浅野内匠頭が、上司である吉良上野介を切りつけました。浅野は切腹を命じられ赤穂藩は取り潰しとなりました。2年後、旧赤穂藩の47人の浪士たちが吉良邸に討ち入りし、浅野の仇を討ちました。

問題となったのは47人の浪士たちをどう処分するか。綱吉自身も相当悩んだと言います。そして、最終的に下した判断は全員の切腹でした。藩主のために命を投げ出すという武士の美学より、法に基づき人の命を大切にすることを選んだのです。

しかし、世間の人々は仇討を果たした赤穂浪士たちに同情し、綱吉に対する不満をつのらせていきました。

相次ぐ天変地異の衝撃

さらに、綱吉の評価を貶めたのが相次ぐ天変地異でした。

57歳の時、元禄地震と呼ばれる大地震が発生。4年後には東海地方で宝永地震と呼ばれる巨大地震が起きました。その2カ月後、富士山が噴火。江戸にも大量の火山灰が降り積もりました。さらに、翌年には京都で大火が発生しました。

こうした災害に対し、綱吉は一人でも多くの命を救おうと被災者の救済に全力を注ぎました。しかし、世間の受け止め方は違いました。度重なる天変地異は、綱吉が悪い政治を行ったがゆえの天罰だと考えたのです。

街には綱吉を批判する落書きがあふれ、綱吉が地震で死んだというデマまで飛び交いました。

孤独な晩年

綱吉自身の身の回りでも不幸が相次いでいました。天変地異が続く最中、娘の鶴姫が27歳で死去。翌年には母・桂昌院も亡くなりました。

その後、綱吉はどんどん気難しい人間になっていったと言います。

年を取られてからは好き嫌いが激しい傾向にあった。

晩年、はしかにかかった時、綱吉はかかりつけの医師さえ寄せ付けず、自らが学んでいた医学の知識に基づき薬を処方させました。一時的には回復の兆しがみえましたが、このはしかが原因で命を落としました。63年の生涯でした。

綱吉の死後

綱吉の死後、6代将軍となったのは兄・綱重の息子である家宣でした。その政治を支えたのは儒学者の新井白石でした。

新井白石

新井白石は、新将軍・家宣に対する人々の期待を高めるため、晩年評判の悪くなっていた綱吉を徹底的に批判。生類憐みの令も、綱吉の死後わずか10日でほとんどが撤廃されました。

しかし、捨て子の禁止や病人の保護など、現代の福祉政策に繋がる部分はそのまま引き継がれました。その後、名君として名高い8代将軍・吉宗も綱吉の政治を参考にしたと言います。

晩年、綱吉が記した書が残されています。

思無邪

(政を司る人間はどう考えるべきか、考えによこしまなもの邪念が入ってはいけない)

理想の社会を実現しようと奮闘した徳川綱吉。しかし、その名は最悪の統治者として伝わることとなりました。

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
犬公方の知られざる思い ~徳川綱吉~

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