オーストリアで「ヨーロッパの母」と称されるクーデンホーフ・光子|ありえへん世界

青山光子(あおやまみつこ)は、1874年に東京で生まれました。小学校を卒業後、政治家や文化人が集う高級社交場で働き、その後父親が経営する骨董商の手伝いをするようになりました。

ハインリッヒ・クーデンホーフとの出会い

1892年、ハンガリー・オーストリア帝国の貴族で外交官ハインリッヒ・クーデンホーフが日本に赴任。当時、外国人の多くが日本の骨董品に興味を示していた時代。ハイリッヒも光子の父の骨董商を度々訪れました。

ハイリッヒは、日本人にしては珍しい八頭身の瑞々しい美しさを放つ美津子に一目惚れ。しかし、当時は閉鎖的な社会で国際結婚など考えもしない時代でした。

また、当時は娘の結婚は父親が決めるものでもありました。

日本人初の国際結婚

そこで、ハインリッヒは光子の父親に「娘さんを僕にくれたら、あなたが死ぬまで永遠に毎月100円を払い続けます」と言いました。当時の100円は現在の価値で100万円ほど。実は光子の父親はギャンブル癖があり青山家は経済的に追い込まれていました。

こうして光子は売られるも同然にハインリッヒと結婚させられることになりました。ちなみに、光子は日本人初の国際結婚と言われているそうです。

2人は東京にある外交官寮で一緒に暮らすことになりました。光子は意思を通わせるため語学を猛勉強し、日本で夫とすごした4年の間に2人の子供を授かりました。

オーストリアへ

1896年、光子は日本での赴任期間を終えた夫とオーストリアへ旅立ちました。貴族であるハインリッヒのロンスペルク城に腰をすえてから、光子は7年間で5人の子供を授かりました。29歳にして7児の母親となったのです。

しかし、幸せな生活は長くは続きませんでした。光子は当時の医療では不治の病と言われた肺結核になってしまったのです。療養のため家族は環境の良い田舎町へ移住。夫の献身的な介護もあり光子は肺結核を克服しました。

ところが、ハインリッヒが心臓発作で47歳という若さで亡くなってしまいました。光子は日本から遠く離れた異国の地で、31歳で7人の子供のシングルマザーとなってしまったのです。

光子は一家の長として子供たちに教育を施す一方、クーデンホーフ家の稼業である林業や農業の経営を猛勉強し家計を支え、女手一つ異国の地で7人の子供を育て上げました。

光子の子供たちは…

そのかいあって光子の子供たちは目覚しい成長を遂げました。長女エリーザベトはオーストリアの大統領の秘書に、三女イーダフリーデリーケは20世紀カトリック文学の代表的作家に。

そして最も有名になったのが次男のリヒャルト。彼を育て上げたことこそ、光子がヨーロッパの母と呼ばれるゆえんです。

リヒャルトは、1914年に王政時代最高レベルといわれた高校テレジアヌムを卒業。哲学者になろうとした彼に大きな時代の流れが襲いました。第一次世界大戦が勃発したのです。

ヨーロッパ人同士が殺しあう悲惨な戦場。それを目の当たりにしたリヒャルドは1923年に汎ヨーロッパ運動を始めました。

汎ヨーロッパ運動とは欧州全体を一体的にとらえ共通の法律・通貨などを設けることで地域の混乱を回避しようという運動

この活動は現在の欧州連合EUの前身と言われており、その功績が認められたリヒャルトは欧州統合に貢献した人物に与えられるカール賞を受賞し、母国オーストリアの切手にもなったのです。

ゆえにEUの基礎を作ったリヒャルトは「ヨーロッパの父」、それを育て上げた光子は「ヨーロッパの母」と呼ばれているのです。

そして1941年、クーデンホーフ・光子は67歳で亡くなりました。

「ありえへん世界」
オーストリアで切手になった偉大な息子を育て「ヨーロッパの母」と呼ばれる日本人

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