小森和子の謎の晩年を養女が激白「認知症・パーキンソン病・資産4億円の行方」|爆報!THEフライデー

80年代、バラエティ番組のご意見番として愛された小森和子(こもりかずこ)さんは、当時としては極めて少ない英語が堪能な映画評論家。多くのハリウッドスターと華麗なる人脈を築きました。

しかし、私生活では独り身で子供もいなかった小森和子さん。家族のいない寂しさを紛らわすかのように日々仕事に没頭していました。

養女・晴子さんとの出会い

1981年には自ら7000万円を投じて映画ファンが集うお店「ムービーサロン・ココ」を開業。そこで後に養女となり4億円の資産を使い込んだとされる晴子さんと出会いました。この時、小森和子さんは72歳、晴子さんは35歳。当時はオーナーと従業員という関係でした。

晴子さんは、夫と離婚して北海道から上京してきたばかりでした。すでに母も亡くし身寄りがなかった晴子さんを小森和子さんは自分の子供のように可愛がったと言います。

小森和子さんは身の回りの世話やテレビ局の送迎に至るまで、晴子さんを強引に付き添わせるようになりました。

そんな2人の関係が変わったのは出会いから7年後の1988年。小森和子さんは晴子さんに養女にならないかと誘ってきました。しかし、晴子さんは不幸な未来を考える事自体が不吉と、養女の話を断りました。

養子縁組

ところが1995年3月、小森和子さんは自宅で転倒。不幸なことに顔のそばにはファンヒーターがありました。立ち上がれないまま4時間が経過。

1日に一度は家に顔を出していた晴子さんが発見し病院に連れていきましたが左頬と左腕に火傷を負って足から皮膚移植することに。3ヶ月の入院を余儀なくされ小森和子さんはテレビから姿を消しました。

仕事もなくなり収入もほぼゼロ、少しずつ貯金を切り崩す入院生活。この頃には軽度の認知症も認められ、もう一人きりにしては危険と思った晴子さんは、入退院や手術の同意をスムーズに行うためにも親族になって小森和子さんを守ろうと正式に養子縁組をしました。

パーキンソン病

小森和子さんはパーキンソン病も発症し、その姿に世間は騒然となりました。

それは小森和子さんを映画評論の世界へ導いた恩師・淀川長治さんの葬儀でのこと。パーキンソン病の影響で顔の筋肉がゆがんだ姿をマスコミはセンセーショナルに伝えました。

あまりの反響の大きさに晴子さんは、世間との接触を少なくする在宅介護を決意しました。

小森和子さんの養女である晴子さんが食いつぶしたと報道された資産4億円の内訳は、預貯金が約2億円、当時2億円の価値があったとされる都内マンション3ヶ所です。一体何に使われたのでしょうか?

資産4億円の行方は?

晴子さんの証言によると、まず小森和子さんの火傷による手術・入院費で1800万円。在宅介護のためマンションを全面バリアフリーに改築した費用2000万円。晴子さんは介護士の資格を取りつつ、ムービーサロン・ココでも働いていたため介護士を24時間常駐させ、その費用が1日4万円。

出費に悩んでいた晴子さんは、知人から介護事業の立ち上げをもちかけられました。知人と会社をやれば小森和子さんの介護もまかなえるうえ、同じ苦しみを持つ人を助けられると提案を受けました。夢のような話と感じた晴子さんは「小さな森」を立ち上げました。

しかし、経営など未経験な晴子さんは、会社を知人に任せていました。会社は大赤字。そして晴子さんも解任されました。結果、晴子さんはお金を出しただけで、開業資金はもちろん2億円のマンションも戻ってくることはありませんでした。

そんな晴子さんに追い討ちをかけたのが、マスコミの大バッシングでした。小森和子さんは認知症で判断能力が疑われる状態なのをいいことに、養女が財産を使いまくっていると叩かれたのです。それでも晴子さんは一切反論せず口を閉ざし続けました。

2000年にはムービーサロン・ココを手放すことになったものの、介護だけは必死に続けました。

小森和子さんはパーキンソン病の影響で唇、舌、喉が動かなくなり胃ろうに。そんな状態が4年続き、2005年1月に小森和子さんは亡くなりました。

小森和子の死後 養女・晴子さんは…

小森和子さんの死から9年、68歳になった晴子さんは今、障害児や認知症患者まで介護するホームヘルパーとして働きながら、小森和子さんと一緒にお墓に入るため納骨していない彼女の遺骨と暮らしています。

血は繋がっていなくても支え合い、常に一緒にいることを望んだ2人の絆は本当の親子以上に固かったのかもしれません。

「爆報!THEフライデー」

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