70年代 雑誌ワンダーランド|ニッポン戦後サブカルチャー史

1970年の日本万国博覧会を機に華々しく幕を開けた70年代。人々は明るい未来に胸をおどらせました。60年代の「モーレツ」な経済至上主義から「ビューティーフル」な生活嗜好へ、時代は大きく変わろうとしていました。

雑誌は人々の欲望を反映しながら、飛躍的に部数を増やし1970年には年間発行部数22億冊を突破。当時、若者たちはどのような雑誌を読んでいたのでしょうか?

「よく読む定期刊行物」ベスト10

1位:朝日ジャーナル
2位:週刊少年マガジン
3位:世界
4位:文藝春秋
5位:中央公論
6位:週刊少年サンデー
7位:週刊朝日
8位:展望
9位:エコノミスト
10位:サンデー毎日

(1970年 学生実態調査)

お堅い雑誌かマンガ誌ばかりでした。

そんな中、1973年にそれまでとは一線を画す「宝島」が現れました。雑誌の顔、責任編集をつとめたのは植草甚一(うえくさじんいち)さん。植草甚一さんは大の散歩好きで、街で見つけた雑多な情報や経験を雑誌に書き綴り、63歳にして突如大ブレイク。若者たちの教祖となりました。

彼が散歩で集めてきたのは情報だけではなく、切手やマッチ箱、雑貨、古本など気に入った物は何でも買い集めていました。そんなサブカルチャーの帝王を旗印にした誌面は音楽、映画、マンガ、まだ世に知られていないアメリカンカルチャー何でもありでした。読者は、まるで宝探しをするように貪り読んだのです。

60年代後半から続いていた若者たちの政治と闘争の季節は終わりを告げ、日本という国のあり方も変わっていきました。70年代は明らかにこれまでとは違った風が吹き始めていたのです。

そして「宝島」は「難破船地球号」「インドへの道」「大麻レポート」など、ヒッピームーブメントロックカルチャーへと傾倒していきました。誌面の構成も斬新で、読者が実践できるネタを興味に応じて選べるように配置。それは当時としては画期的な情報のカタログ的編集でした。

1973年、海外へ飛び立つ旅行者の数は200万人を突破。団塊世代も結婚し家庭を持つようになり、1975年には買い物やレジャーなどに積極的な新しい家族のライフスタイル「ニューファミリー」が流行語になりました。

当時100万部のヒットを飛ばしていた「平凡パンチ」若者の風俗をリードする雑誌作りに定評があったこの出版社は、新雑誌の創刊にいち早く走り出しました。担当したのは編集者の石川次郎さん。そして1976年に「ポパイ」が創刊されました。

ライフスタイルマガジンをうたった誌面には、それまでの若者向け男性誌が掲載していたセクシーグラビアや劇画などは一切なし。その代わり、リアルタイムでアメリカで流行っていたものがカタログ風に所狭しと誌面を覆いました。

中でも雑誌のウリは取材の中で見つけてきた小ネタや裏話に番号をふり、ギチギチに詰め込んだコラムのカタログ「ポップアイ」です。縦組みの斬新なレイアウトは、その後多くの雑誌に真似されました。

伝説の雑誌「ホール・アース・カタログ」とは?

70年代に登場し急速に市場を拡大していったビジュアルやデザイン重視の雑誌の数々。実は「宝島」「ポパイ」の双方に大きな影響を与えた雑誌があります。それがアメリカ・サンフランシスコで1968年に創刊された「ホール・アース・カタログ」です。その名の通り、全地球規模で人々の暮らしやライフスタイルをカタログで網羅しようというコンセプトのもとに作られた雑誌です。

アメリカの60年代は、ケネディ大統領暗殺やキング牧師暗殺など激動の時代でした。自由と平和を追い求めたリーダーたちが相次いで銃弾に倒れ、ベトナム戦争は泥沼化。若者たちは反戦集会やデモで社会に異をとなえました。

そんな中、社会からドロップアウトするヒッピーたちが登場。彼らは戦争を引き起こし物質的繁栄ばかりを追い求めてきたアメリカ社会に背を向け、自らの精神的充足自然志向といった、それまでとは違う別の生き方を追い求めました。中には都市を離れコミューンという共同体を作り始めた者たちもいました。全米に存在したコミューンは一時4000以上にのぼったと言います。

そうした若者たちが持つカウンターカルチャーの強烈なパワーを一躍社会に知らしめたのが、1969年のウッドストック・フェスティバル。当時若者たちの社会への反抗の証だったロックやフォークのミュージシャンたちが数多く参加。この野外イベントに数多くのヒッピーを含む50万人もの若者たちが集結。「ラブ&ピース」を合言葉に自然の中で音楽を楽しみ、食べ物を分け合った3日間のユートピア。その体験は若者たちの胸に深く刻まれました。

そんなヒッピーカルチャーにどっぷり浸かっていたスチュアート・ブランドは、ヒッピー世代の若者のための雑誌のアイディアを思いつきました。それが「ホール・アース・カタログ」です。中身は実に多彩で、農作物の育て方、アメリカ先住民の移動式住居の組み立て方、リラクゼーションの仕方、コンピューターなど。地球という惑星で生きていくのに役立つ情報や、知識へアクセスする道具とアイディアを網羅したかつてないカタログでした。

「ホール・アース・カタログ」は、自分なりの生き方を模索する若者たちに歓迎され、一躍ヒッピーたちのバイブルに。1972年には150万部を超す大ベストセラーになりました。

故スティーブ・ジョブズも「ホール・アース・カタログ」の愛読者の一人でした。そんなヒッピーたちのバイブルの噂は、流行に敏感な日本の知識人たちの耳にも入りました。

70年代 若者たちが雑誌に見た夢

若者たちの新しい生き方の模索が始まった1970年代。それは女性の時代の幕開けでもありました。

ツイッギーの来日で火がつき大流行したミニスカートを皮切りに、街では斬新かつ自由なファッションを身にまとった女性たちが闊歩していました。女性解放運動を意味する「ウーマン・リブ」が流行語になったのも1970年。男女差別の撤廃や雇用機会均等などのスローガンを掲げました。

同じ年、革命的な女性誌が誕生。その名は「an-an(アンアン)」それまでの女性誌は主婦を対象としていたものが多く、またファッション誌は自分で裁縫する読者を対象としていたため巻末に型組みがつくなど実用的に作られていました。しかし「an-an」は違いました。

当時はまだ珍しかった海外ロケの記事、自然で生き生きした表情のモデルたちなど、それまでの女性誌とは全く違う刺激的なページ作りに世の女性たちは目をみはりました。記事よりも写真やキャッチコピーなどが主役かのような大胆なレイアウトが新鮮でした。

創刊当時、原稿をよせていたのは三島由紀夫や澁澤龍彦といった文学界の奇才たち。そして何よりも世の女性たちのハートを射止めたのはカワイイという感覚を第一に女性編集者たちが作り上げたページでした。

きっかけは旅の記事。京都や鎌倉といった歴史あるオーソドックスな街も、新しい視点で見ると違って見える、当時発売されていた観光ガイドとは一線を画していました。イラスト付きで女性目線の癒される名所や可愛い土産物、お菓子屋などを取り上げた独自のマップを作成。それは自分なりの旅を作りましょうというメッセージでした。

雑誌の旅特集は話題を呼び、若い女性たちの間で旅がブームに。日本各地の名所旧跡には女性同士のグループが激増。「アンアン」「ノンノ」といった雑誌を片手に歩く、いわゆる「アンノン族」作り手と読者を結んだのはカワイイという女性ならではの感性でした。

可愛いはやがてファッションからインテリア、女性の生き方そのものを表す言葉として時代を作り上げていきました。70年代は雑誌メディアの主体が、作り手から読み手の側へ移行していく時代でもありました。

中央大学の映画好きの学生たちの手によって1972年に創刊されたのが「ぴあ」です。どこの映画館で今どの映画が上映されているのか知りたい、そんなささやかな思いから出発した雑誌は作り手の批評や主観を一切排除し、ひたすら客観的な情報のみを並べました。それは情報の取捨選択の一切を読み手に委ねるという前代未聞の雑誌でした。

さらに、画期的な雑誌も生まれました。1978年に創刊された「ポンプ」は丸ごと一冊全ページ読者投稿によって編集されていました。いわば、それまで雑誌のおまけだった読者欄を主役にした雑誌。全ての投稿には番号をふり、また投稿者自身の住所も開示し読者同士がコミュニケーションを取れるようにしました。

「ニッポン戦後サブカルチャー史」
第5回 70年代(2)雑誌ワンダーランド

この記事のコメント