汝窯青磁 幻の青磁 千年の謎|日曜美術館

東京国立博物館に直径17cmの小さな器が展示されています。1000年程前に作られた中国の汝窯青磁(じょようせいじ)です。世界に90点余りしかありません。この器を手に入れたのは作家の川端康成でした。

2012年、世界中のバイヤーが集まる香港のオークションで日本人が出品した汝窯青磁が落札されました。価格は23億円。台湾のコレクターの手に渡りました。汝窯青磁を特徴づけるのは形のシンプルさと淡い青の色合い。さらに、潤いを秘めた艶のある質感です。

10世紀~12世紀、中国北宋時代の都がおかれた河南省開封。黄河のほとりにある開封は人口100万を超える商業都市として栄えました。特に、第8代皇帝・徽宗(きそう)の時代は文化の黄金期でした。文人たちが盛んに詩や芸術を論じ、書や絵画の傑作が数多く生まれました。

中でも史上最高の水準に達したと言われるのが汝窯青磁です。宮廷で行われる宴や儀式に用いるため形や色の美しさを極限まで追求した青磁が焼かれました。求められたのは玉のような神々しさと輝きでした。

青磁は水や空気を通さない固い土の上に釉薬をかけ1200度以上の高温で焼いて作ります。釉薬は植物の灰と鉄分を含んだ長石という石の粉とを水で溶いて混ぜ合わせたものです。焼くときに窯の中の酸素を極力少なくし不完全燃焼の状態で焼くと釉薬の中の鉄が青色に変化します。釉薬の配合や焼く温度の加減で青の色合いは変わります。そのため、計算通りに青色を発色させるには高度な技術が必要です。

皇帝・徽宗は汝窯青磁を自らの理想とする青の色で覆いたいと願いました。その青とは「雨過天晴 雲破処」雨上がりの雲の間からのぞく空の青を意味します。艶のある淡い青の色合いは天青色(てんせいしょく)と呼ばれました。しかし、実際の青磁で天青色を出すのは至難の技でした。徽宗は王朝の威信をかけて遥かなる高みにある天青色を目指しました。

文人文化が花開いた北宋時代、皇帝・徽宗自身が書にたけ絵を描き音楽を楽しむ才人でした。その徽宗が汝窯青磁に求めたのは華やかな装飾ではなくシンプルな青の美しさ。平和を感じさせる希望の青で覆われた最高の青磁を作り上げたい、そんな夢の実現に情熱を注ぎました。

しかし、あまりにも芸術に没頭しすぎたため国は乱れ、やがて北方の金に滅ぼされました。誕生からわずか二十数年、汝窯青磁は北宋と共に消滅。天青色は永遠に失われてしまったのです。

北宋の滅亡から600年後、汝窯青磁の天青色に憧れコレクションを築いた皇帝がいました。清朝第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)です。満州族出身の乾隆帝は歴代中国王朝の正当な後継者たらんと過去の王朝の遺産である文物や芸術品を100万点以上集めました。

乾隆帝は北宋時代に作られた汝窯青磁の水仙盆を手に入れ、その裏に自作の詩を彫り込ませています。そこには器の印象について「火気すべてなく葆光あり」と記しています。乾隆帝の死から100年後、清朝は滅び皇帝の膨大なコレクションが国内外に流出しました。

人目に触れることのなかった汝窯青磁が流出したことで、研究や発掘調査が進みました。土や釉薬には何を使ったのかなど、幻の青磁の実態が徐々に明らかにされていきました。

1987年、河南省の農村で事件が起こりました。畑の中から天青色の青磁片が発見されたのです。その後、発掘調査により汝窯の窯跡と判明。現場の状況から天青色を生み出すのは想像以上に困難だったことが分かりました。

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幻の青磁 千年の謎

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