ホープ・ソロ アメリカ美人ゴールキーパーの衝撃過去|アンビリバボー

ホープ・ソロは、1981年にワシントン州で生まれました。両親と兄の4人家族、貧しいものの温かい家族に笑いがたえる事はありませんでした。

5歳の時に父がコーチをつとめる地元のサッカークラブに入団。しかし、ホープ・ソロが6歳の時に両親が離婚。ホープ・ソロは母親のもとで育てられることになりました。

寂しさをサッカーにぶつける日々が続きましたが、母親は心労からアルコールにおぼれ仕事が手につかなくなり一家は貧困にあえぐことになりました。サッカーを続けるにも遠征や試合の移動で費用がかさみホープ・ソロはサッカーを続けることが困難になってしまいました。

そんな時、手をさしのべてくれたのがチームメイトのシェリルでした。シェリルは両親に試合会場までの送り迎えを頼んでくれました。さらに、遠征費用の負担まで両親にお願いしてくれたのです。

中学生になると、ホープ・ソロはオリンピックの強化チームにキーパーとして入団。そして試合のためにチームでシアトルを訪れた時、杖をつき足を引きずる父親に再会しました。父親はテントで暮らすホームレスになっていたのです。しかし、それでも親子の愛は変わることはありませんでした。

その後、ホープ・ソロはワシントン大学に入学。実家を離れた彼女は学校の寮に入り、奨学金を受けながら生活しました。お金のない父は、時には何時間も歩いてサッカーの試合に駆けつけました。その頃にはシアトルでも有名選手の仲間入りを果たしていました。

ところが2001年1月、殺人事件の容疑者としてホープ・ソロの父親が連行されてしまいました。その後、アリバイが証明され釈放されましたが、警察や住民の疑いは晴れずホープ・ソロの父親であることも周知となりました。警察は依然として父親への疑いを続けました。父親はホープ・ソロに殺人者の娘というレッテルが貼られないように自らメディアに登場し無実を訴えました。

2007年FIFA女子ワールドカップ中国2007への出場が決定。ところが、父親が病気で亡くなってしまいました。父親の遺品を整理していると、ホープ・ソロに関する新聞記事やネット記事が丁寧にスクラップされていました。ホープ・ソロはこのスクラップブックについてこう話しています。

私がこれまで見た中で最高に美しい物です。(ホープ・ソロ)

そして迎えたワールドカップ中国大会。ホープ・ソロは試合開始前にゴールの周りに父の遺灰をまきました。ホープ・ソロは父と共に戦うことを決意していたのです。そして3試合を見事完封。アメリカ代表は順調にトーナメントを勝ち進みました。

ところが、競合ブラジルとの準決勝で、過去のブラジル戦で好守備を見せていたベテランゴールキーパーのブライアン・スカリーが起用されました。その結果、0対4の歴史的大敗。ホープ・ソロは天国の父へ活躍をみせられない悔しさ、そしてプロとしてのプライドから「私だったらセーブしたと確信しています」と発言。この発言はベテランのスカリーのパフォーマンスを否定していました。

チームメイトはホープ・ソロを裏切り者扱いし、コーチは彼女をチームから締め出しました。さらに、3位決定戦の試合中ホープ・ソロはホテルから出ることを禁止され表彰式への参加が禁止されました。

ワールドカップ後、チーム全体で話し合いが行われ、チームメイトと食事すること、ベンチに座ることなど様々なことが禁止されました。ホープ・ソロはその後、チーム内での自分の立場に悩み納得のいかないプレーをしてしまう試合が続きました。

そんな中、監督が交代。徹底した実力主義を掲げた新監督ピア・スンドハーゲは、チームとの溝が埋まらぬままのホープ・ソロをスタメンとして起用。そしてのぞんだ北京オリンピックでブライアン・スカリーは「あなたはとてもいい子よ、ワールドカップの時も今も」と話しかけてきました。自らが傷つけたスカリーに背中を押されたのです。

そして勝ちすすんだ決勝。相手は歴史的大敗をきした競合ブラジル。1対0の完封勝利をおさめました。ホープ・ソロは見事チームを優勝へと導いたのです。

「奇跡体験!アンビリバボー」

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