安藤百福のインスタントラーメン開発秘話|アンビリバボー

終戦から12年が経過した昭和32年(1957年)、大阪に住む安藤百福(あんどうももふく)がインスタントラーメンの研究に取り組んでいました。

当時、安藤百福は無職だったため家族はわずかばかりの貯えに頼って生活していました。家財道具は差し押さえられ、生活は厳しくなりつつありました。

安藤百福は、かつて様々な事業を手がけた成功者でした。繊維事業を手始めにバラック住宅の製造学校の設立など、成功させた事業は多岐に渡っていました。そして、そのいずれもが「何か人の役に立つことはないか」「世の中を明るくする仕事はないか」という信念に基づいたものでした。

最初に手がけた繊維業では、最新式の織り機を導入し良いものを安く販売できるように工夫しました。バラック住宅の製造は戦災で家を失った人々のためのものでした。さらに、戦後栄養失調で亡くなる人が続出していると聞くと栄養食品の開発のため研究所を設立。役所に国民の栄養状態を訴えるなど人の役に立とうという信念を貫き通していました。

安藤百福が名実ともに地元の名士となった頃「信用組合の理事長の座について欲しい」という依頼が舞い込みました。安藤百福は断りきれませんでしたが、そこは金融の専門家がいない素人集団ともいえる信用組合でした。そのため、わずか6年で破綻。安藤百福は理事長として責任を取り、自身の財産を損失の穴埋めに差し出しました。結果、家とわずかな金を残して全てを失ってしまったのです。すでに47歳で何かを始めるには遅すぎる年齢と思われました。

インスタントラーメンの開発

ところが、安藤百福は庭に小さな小屋を造らせました。小屋ができると道具を運び込み朝から真夜中まで研究に没頭するように。安藤百福は誰も挑戦したことのない、お湯をかけるだけですぐに食べられるラーメン、インスタントラーメンの開発を始めたのです。これは新しい食文化創造への挑戦でもありました。

いまや国民食ともいえるラーメン。その美味しさを家庭でも味わえるインスタントラーメンの国内年間消費量は54億食に達しています。しかし、ほんの55年前にはラーメンは専門のお店で食べるのが一般的で、家で手軽に食べられるインスタントラーメンは存在していませんでした。

安藤百福は夢のようなラーメンの完成を起死回生の挑戦として選んだのです。しかも、それまで一度も麺を作ったことがなかったにも関わらずです。

最初は粉の配合すら手探りの状況でした。しかも、安藤百福は麺にあらかじめ味のついた着味麺を作ろうとしていました。試行錯誤の末、蒸した麺にスープを振り掛ける方法に辿り着いていました。スープのベースは鶏。鶏のスープは古くから料理の基本となる味です。味をつけた麺は長期保存するため乾燥させ、お湯ですばやく戻るように、注いだお湯がそのままスープになるようにすれば消費者の手をわずらわせずにすむと。しかし、何度やっても麺をうまく乾燥させることが出来ませんでした。

そんなある日、安藤百福は妻が天ぷらを作っているのを見て、天ぷら鍋の中に麺を1本入れてみました。すると麺がすっと浮きあがったのです。麺を高温の油に入れると水分が一気にはじき出され、その後には無数の小さな穴ができます。そこに熱湯を注げば穴からお湯が吸収され麺が柔らかく復元していくのです。

安藤百福は針金と金網で四角い型枠を作って麺をいれ、同じ厚みに整えてから揚げてみました。すると、1人前の麺がきれいに揚がりました。そして初めて出来た製品のできばえを家族と共に確かめました。安藤百福は初めてふるまう相手は家族と決めていたのです。安藤百福は世界初のインスタントラーメンを「チキンラーメン」と名づけました。

うどん玉が6円で買えた当時、35円のチキンラーメンは高価なものでした。しかし、コスト的にこの値段がギリギリのライン。それだけの価値があると信じていました。

そして1958年8月25日、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が正式に発売されました。そこには安藤百福のこだわりの、調理や味付けがいらないことと、栄養が補えることがしっかりと表記されていました。どんぶりに入れてお湯さえかければラーメンができあがるという斬新さが消費者の心をひきつけました。豊富な栄養素が含まれるスープのおいしさを求め注文が殺到しました。

安藤百福は事業の拡大にとりかかりました。古い倉庫を改装して工場を建てると完成した製品を奪い合うように買い取っていく問屋の列が出来ました。

そして発売から4ヵ月後、社名を「日清食品」としました。「日々清らかに豊かな味を作りたい」そんな思いを社名に込めたのです。チキンラーメンは発売から55年経った今でも愛され続ける商品となりました。

安藤百福がカップヌードルのプロジェクトチームを正式に発足させたのは59歳の時。そして発売されたカップヌードルは大ブームを巻き起こしました。今では世界80カ国以上で発売されるカップヌードル。インスタントラーメンはいまや世界の常識、食文化のひとつとして定着したのです。

最後の挑戦

安藤百福は晩年になっても味のチェックを欠かさず、毎日インスタントラーメンを食べていたと言います。常識を越えた発想と執念でチキンラーメンやカップヌードルという全く新しい食品を発明した安藤百福。

そんな彼の最後の挑戦は90歳を越えてからでした。それは宇宙で食べられるラーメンの開発。そして95歳の時「スペース・ラム」と名づけられた宇宙食ラーメンは宇宙に飛び立ちました。

インスタントラーメンが宇宙に飛び立ってから1年半後の2007年1月5日、安藤百福は亡くなりました。そのニュースは世界に配信され、ニューヨークタイムズは「ミスターヌードルに感謝」と題した社説を掲載。

チキンラーメンが完成したとき48歳。男性の平均寿命が65歳だった当時「遅い出発ですね」といわれた安藤百福はこう答えたそうです。

50歳からでも60歳からでも新しい出発はある。インスタントラーメンの発明に辿り着くには、やはり48年間の人生が必要だった。

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