糸川英夫 宇宙開発の父|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で宇宙開発の父・糸川英夫 ~夢を与える技術を生むには~が放送されました。

 

それは敗戦から始まった

糸川英夫(いとかわひでお)は明治45年(1912年)7月20日に、小学校の校長だった父のもと、東京に生まれました。幼い頃から飛行機が大好きで、飛行機を作りたいと東京帝国大学に進学しました。卒業後は当時の大手航空機メーカーの中島飛行機に就職し、戦闘機の開発に携わることになりました。ここでの糸川英夫の仕事ぶりは一風変わったものでした。なぜかパイロットたちが暮らす宿舎に泊まり込み始めたのです。良い戦闘機を作るにはパイロットの気持ちを知らなくてはいけないと半年間寝食をともにしました。パイロットの考え方や咄嗟の反応を調査した糸川英夫は、それを開発に取り入れパイロットの操縦しやすい戦闘機を作ろうと心を砕きました。そうして作り上げたのが戦闘機「隼」です。隼は最高速度500km、航続距離2000km以上、上昇力と旋回能力に秀で、海軍のゼロ戦とならぶ陸軍の名戦闘機と言われました。

やがて敗戦が濃厚になってきた昭和19年、糸川英夫は神風特別攻撃隊のニュースに衝撃を受けました。爆弾を積んだまま敵に体当たりするために出撃していく戦闘機。パイロットの多くは20歳前後の若者たちでした。その姿を目にした糸川英夫は新しい技術開発に没頭するようになりました。無人誘導弾です。人が操縦しなくても飛行機を目標まで誘導できる技術です。しかし、資材や人材不足などで開発が進まないまま終戦を迎えました。敗戦は航空業界に関わる人々の運命を大きく変えてしまいました。連合軍による占領政策により、航空機に関する研究や製作など一切の業務が禁止されたのです。糸川英夫の研究室も閉鎖され、同僚や教え子たちも散り散りになりました。

糸川英夫は航空機の開発に欠かせない振動の研究が、空気を研究させて音を伝える楽器の仕組みを科学的に解明するのにいかせるのではないかと、音響学の研究を始めました。さらに脳内の電気活動を記録する脳波も振動が応用できると、日本初の脳波測定器を開発。これがアメリカの研究者の目にとまり講演の依頼を受けることに。そして、このことが糸川英夫をロケット開発に導きました。

 

宇宙に挑む

1952年、講演のため渡米した糸川英夫はシカゴ大学の図書館で「スペース・メディスン(宇宙医学)」という一冊の本に出会いました。宇宙空間が人体に与える影響について書かれた研究書です。アメリカは人間を宇宙に送ることを考えているのかと糸川英夫は驚きました。当時は各国でプロペラ機からようやくジェット旅客機の実用化への進められていた時期。そんな中、アメリカの目はすでに宇宙へ向けられていたのです。同じ年、サンフランシスコ平和条約が発行。日本ではロケットも含め全ての航空機研究が解禁されました。これからはロケットの時代だと糸川英夫は帰国すると研究者や企業に声をかけ賛同者を集めようとしましたが反応はいま一つでした。日本ではまだロケットという言葉すら一般的ではなかったのです。そこで糸川英夫は、ロケットを世間に知ってもらうこと考えました。新聞記事の中で糸川英夫は「ロケットを作れば日本からアメリカへ20分で行ける」と夢のような技術を披露しました。しかし、研究を支援しようという者は現れませんでした。仕方なく材料を集めるために戦闘機の廃材をあさり始めました。

 

知恵その一 足りないことを喜べ

糸川英夫がかき集めた材料で最初に作り上げたロケットは、長さ23cm、直径18mm、重さ200gの「ペンシルロケット」でした。しかし、発射実験に不可欠な速度や位置、飛行ルートなどを測定するための装置が乗せられませんでした。そこで糸川英夫は横に飛ばすことにしました。導線に電流を流したスクリーンを用意しロケットの前に等間隔で並べ、このスクリーンをロケットが通過すると導線が切れ、その時間から速度が計算できます。さらに破れた位置からはロケットが飛んだルートも分かるのです。小さなロケットは重心の位置や尾翼の角度を簡単に変えられ、様々な条件で実験データをとることができます。1955年3月11日、ペンシルロケットの発射実験が日本初のコントロールセンターに座った糸川英夫のカウントダウンで行われました。この水平実験は6日間行われ29機のペンシルロケットが発射されました。こうして得られたデータは、その後の日本のロケット開発の基礎データとなりました。足りないことに不満を言わず常に前向きに考える、そんな糸川英夫の知恵が日本の宇宙開発の礎となったのです。

 

1954年、イタリア・ローマで国際プロジェクトが動き始めました。1957年7月からの一年半を地球観測年と定め、南極観測や高度50キロ上空の大気の分析など地球の姿を詳しく調べようというものでした。高度50キロの観測にはロケットが不可欠。会議に参加していたアメリカ代表は「ロケットはアメリカが提供し日本はそれに載せる観測機器をつくる」という提案を持ちかけました。ところが日本は「ロケットもわが国でつくろうと思います」と答えたのです。担当窓口になった文部省の岡野澄は困りました。そんな彼が思い出したのは新聞に載っていた糸川英夫の記事でした。岡野は早速、糸川英夫を文部省に呼び出しました。文部省の後ろ盾で資金を得た糸川英夫は、ロケット開発を加速させ5カ月後には全長1.2メートルのベビーロケットを高度6キロに打ち上げることに成功。その1年後には全長2.4メートルのカッパロケットを開発。観測機を搭載し高高度に打ち上げる実験を開始しました。ところが大きな壁にぶちあたりました。いくら上げても推進力が足りず、高度10km以上に上がらないのです。問題は燃料にありました。ロケットの燃料には液体燃料と固体燃料の2種類があります。液体燃料は燃料効率が高く、ロケットを打ち上げるのに必要な推進力を得やすい上、エンジンに送る燃料の調性も容易なことから欧米では主流の燃料でした。しかし、液体燃料は保存が難しくコストが高いことから資金が少ない糸川英夫は固体燃料を選ぶしかありませんでした。ところが、火薬を強い圧力で固める固体燃料は大きくすると崩れてしまうため、どうしても推進力の強い大型の燃料が作れないのです。有効な解決策が見つからないまま1957年7月、地球観測年が始まってしまいました。

 

知恵その二 人のふんどしで相撲をとるな

「我が国は敗戦以来、科学技術において産業において欧米諸国に著しいたち後れを示している。いたずらに欧米の後を追うのみでは永久に後塵を拝するにおわるおそれがある。将来の可能性に対し進んで世界の技術の第一線に立つことが必要である」(糸川英夫「AVSAの研究計画について」より)

固体燃料を自分たちの手で開発することは日本の技術の未来をも左右すると糸川英夫は考えていました。ある日、研究院の一人が「燃料を固める接着剤を入れたらどうでしょうか」と提案してきました。様々な素材で実験を開始。その結果、合成ゴムを用いればうまくいくことを発見しました。ついに固体燃料の大型化につながる新しい技術を手に入れたのです。1958年9月25日、新たに開発した大型の固体燃料を搭載した全長5.4メートルのロケットを打ち上げました。ロケットは高度60キロに到着しました。地球観測年に自力でロケットを打ち上げたのはアメリカ、ソビエト、イギリス、日本だけ。宇宙開発の分野で日本が世界を相手に第一歩を踏み出した瞬間でした。あくまでも自分たちの手で独自開発することにこだわる糸川英夫の信念こそが、世界を驚かせ人々に夢を与え続ける日本の宇宙開発技術を生む原動力となったのです。

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